最近Webサイトで頻繁に見かけるようになったこの機能。これらは「レコメンド機能」、「レコメンドサービス」などと呼ばれ、amazonなどの大手Webサイトが活用しています。 「歌ネット」と連携した、新しい大人向けの音楽情報サイト「MUSIC GUIDE」がオープン! 演歌、歌謡曲、フォーク、ニューミュージックなどは勿論、洋楽ポップスやロック、イージーリスニング、ジャズ、フュージョンまで、大人世代向けの音楽情報に特化! オススメの若手歌手100人のデータベース「注目歌手カタログ」や、毎週水曜更新の「なつ歌詞」コラムも楽しい! 今スグ、チェック! リヴァラとクレイの髪質や性格の違いこれはまあ動画を見ればわかるだろう。 2. ジェームズ・ダグラス・"ジム"・モリソン(James Douglas "Jim" Morrison、1943年 12月8日 - 1971年 7月3日)は、アメリカのミュージシャン、詩人。 ロックバンド、ドアーズのボーカリスト、ソングライターとして知られる。 また、バンド活動とは別に数冊の詩集を発表している。
さて、きました。 きましたよ。 『紗痲』の前作(episode 0)にあたる『キルマー』、解禁です。 ∴flower『キルマー』【Official】 『キルマー』は煮ル果実氏の作品です。 『紗痲』でファムファタルのような魅力的な女性であったカルミア(Kalmia)の、誕生の秘密が描かれています。 bump of chickenの「カルマ」歌詞ページです。作詞:藤原基央,作曲:藤原基央。(歌いだし)ガラス玉ひとつ落とされた 歌ネットは無料の歌詞検索サービスです。
7月26日、shibuya-axで行われたイベント「e-girls show」にて「vocal battle audition 3」の合格 … 時代背景キルマーは 3. 2010年. さて、きました。きましたよ。 『キルマー』は煮ル果実氏の作品です。『紗痲』で 『紗痲』の勝手解釈についてはこちら↓↓↓ (今回のキルマー解釈後、こっちも再解釈するかも) さすが煮ル果実氏と言わざるを得ない口ずさみたくなる音楽と、目が離せない物語を綴るWooma氏の動画。さらに中村 最初は、解釈する気はなかったんです。ああ、悲しい。悲しくて素敵。こんな修羅場から生き残って そんな思いから何度も見ていくうちに、頻繁に出てくる「愛」というものについて、考えさせられるようになりました。 そこでここでは、『キルマー』の歌詞と動画をもとに考察・解釈していきたいと思います。すでに多くの方が考察・解釈していると思いますが、私なりにこの曲における愛について述べさせていただきます。 長文となってしまったのですが、良ければお付き合いくださいね。 ※以下、歌詞は まずはキャラ紹介から。これは立ち絵…キルマ―のキャラデザこんな感じです (Wooma氏の Wooma氏の 【shama episode 0】 ※リヴァラに関する情報はあえて出していないようだ。リヴァラは見た目が『紗痲』のクレイと大変に似ているが、その辺については情報が少なすぎるため、最後のほうで可能性として考察する。 Wooma氏のこの神話で出てくるのは、優れた漁師で美男子でもあるオリオン。そのオリオンの放漫な態度に怒った神々がサソリを遣わし、そのサソリの毒によってオリオンは亡くなったとされている(ここでは神話①と呼ぶことにする)。Hannaという名は、「恩恵」「恵み」を意味する オリオンの神話には諸説あるわけだが、ひとまずこの話を念頭に置きながら、以下の歌詞を解釈していきたい。 OPはこの時の結末を迎え、「 ここからは 足に鎖を繋がれ牢屋に入れられたハンナ。狂気の充満するその場所で、彼女は「一糸も二糸も纏わず」、つまり守る術を持たない全くの丸裸の状態で捕まっている様子が描かれている。「熟れる 獲る 得る」は成熟しそれを狩りとって得る、という狩りが彼女ら部族に対して行われたことを示している。 ここでいう下賤は、人身売買のような悪行を行う者たち、という意味だろう。ハンナたちの部族は長い髪や角に加え、変わった瞳の色をしている。それらはおそらくしかしながら残念なことに、ハンナらはその狩りを行う組織ア ちなみに、神話のオリオンの死因に関する話には、アルテミスが誤って殺してしまった説(ここでは神話②と呼ぶことにする)もある。アルテミスは狩猟・ そうして、彼女らが身を隠していた教会はならず者たち(hooligan)に襲われ、ハンナは姉(母親ともとれるが、個人的好みでここでは母親代わりの姉と表現する)をガイによって目の前で殺される。 欲望のままに仲間や身内を奪われた泣き叫ぶ彼女は押さえつけられ、その暴力に屈する形となる。天網とは、天の張る網のことで、悪人は必ず天罰を受けることを意味するが、そのような都合のよい天罰はこの世にないという現実を、 この先の歌詞にも頻繁に出てくる「ベルベットロープ」は、「自分の内側と外側を決める線引き」を意味するものだろう。この「ベルベットロープ」は、おそらく つまり、ベルベットロープは自分という囲いを作っているわけだが、ここで 鎖を外されたハンナは身体をきれいにされ、ガイの夜の相手をさせられることになる。おそらくガイのお気に入りとなったハンナ。彼女はサソリの入れ墨とともにア「I'll take care of you until you die」という言葉も、ガイにとってはお気に入りに対する褒美のような言葉だったのかもしれないが、彼女にとっては彼に命を握られ、姉の二の舞になる未来しか感じられない言葉だったのかもしれない。 ここは、アルミスがワイン(毒入り)を アルミスはガイに好意を抱いており、同じ部族であるのに自分を差し置いてお気に入りとなったArmisは オリオンが好色家であったようにガイもまたそうであり(アルミス、リヴァラ、六人の奴隷?など)、アルミスはガイが囲っている女性の一人だといえる。神話で星となったプレイアデスのうち、6つの星は明るく輝くが、7つめの星だけは人間と交わったことを恥じて赤い色で輝くという説もある。この曲の中で7つ目の星は、実らない恋をするArmisかもしれない。 この動画では、上記のような女性間のやり取りを描いているが、ここの歌詞はガイに対するものだといえる。オリオンは神々の制裁を怖れることなく、放漫な態度を取り続けた。それはガイも同様で、そのような彼に対し、「馬鹿につける薬はない」という意味の歌詞となっている。 さて、リヴァラによりアルミスの計画は失敗したわけだが、リヴァラは上記のような歌詞を誘い文句に、毒を利用することを提案する。いや、ここでリヴァラが提案したかどうかは定かではないのだが、リヴァラがその後毒ワインを利用してロンを殺害していることや、 アルテミスがオリオンを殺す神話②は、アルテミスの兄この曲でいえば、兄 リヴァラに関してはここで過去の映像のようなものが出てきているわけだが、 「淡々と放つ言動」ガイはオリオンのように、淡々と、放漫な態度で不敵な演説していたのだろう。ここの「救いのない」相手は、そのような言動をするガイだ。すべてを諦め涙の乾ききった眼に炎を宿し、 また、多くの言語や宗教において、左は「悪魔的な」や「よこしまな」といった意味を持つ。ガイはこの彼女の内側にある悪魔的な部分も含めて気に入ったのかもしれない。そしてガイを殺す際に色の灯る彼女の左目は、彼女のその悪魔的部分が解放されたことを暗示しているといえる。 また、 サビの最初の歌詞は、最初と同じだが、ここで「憂いたくなるよな」は次の「天網」に関する歌詞も、最初は「天網」がなく悲観していたハンナが、この時点では「天網」が無いからこそ自分が罰を下す(上の立場になる)という風に変化している。(この辺の、文脈によって言葉の意味を変える手法がほんと煮ル果実氏最高) また、「愛」の歌詞に関して、最初とは違い、愛はないと「願っていた」、となっている。「願っていた」と過去形であるということは、今は「愛はない」と願うだけだった自分から脱却したという可能性と、今現在「愛がある」ということを認識している可能性の二つがあるわけだ。 そこで、銃を取り出すガイに対して、それをはじき飛ばし首に剣を突きつける 「仕様がない」というセリフは、②もしかすると ガイに刃を突き立てる 「ここで殺人を犯せば、彼女は姉を殺したガイと同じ、道理から外れた(不埒な)ならず者の仲間入りをすることになる。そんな彼女に対し、姉の幻覚は慰めるように彼女に寄り添う。しかし、彼女の中の少女ハンナは「問題ない」と、寄り添う姉の幻覚を断ち切り、故に「愛はない」とガイの首に刃を突き刺す。つまり、殺しを犯しても「問題ない」のは、すでに「愛がない」からである。この「愛はない」は、もうすでに「愛」をくれた姉がいないということなのか、体を重ねることでガイに愛を感じ始めていた そうして、自身のベルベットロープを断ち切ったガイを殺す直前まで、主語は「少女」だった。つまり、ここまで無垢な少女であったハンナは、悲惨な運命の糸ともいえるハンナ自身のベルベットロープを断ち切ることによって、「 ここまでは何が言いたいかというと、この曲は 動画内では、 多くの人が感じているように、ガイが「死ぬまで面倒見てやる」という言葉、そして、「愛はないと願っていた」の「願っていた」で、苦しそうな表情で もしガイが完全な悪党でクズ(かつブサイクな)野郎だったならば、つまり、たとえ悪党ではあっても、彼の人間的な部分が垣間見えることで我々はガイを完全に恨むことができず、それを そこで、ガイを中心にもう一度曲を見ていきたい。 この曲は言うまでもなく物語調になっており、歌詞には地の文(説明描写)と会話文(セリフもしくは思考)となっている。改めて三つのサビの歌詞部分を書くと、以下の通りだ。 サビ① サビ② サビ③ この曲の会話文には男空調と女口調が混じっており、「楽しいでしょうね」「そうね、さよなら」「判明したのよ」のような女言葉は基本しかし、後半は男口調の「言わせてやるよ なあ」のように また、口調を抜きにしても、上記の色分けの通り、サビの会話文部分は特に後半の歌詞にはわざわざ「少女は」と主語が足されており、まるでその他の歌詞文の主語が違う人間であることをほのめかすようになっている。 さらに動画では、サビ②の「今が生涯 最の底辺だって憂いたくなるよな」でガイが映し出され、「この地獄から抜け出したいのさあ」ではガイが口を開き、まるでガイが話しているかのような描写でもある。そして、極めつけは「愛は」で口を開くガイと「ない」で叫ぶ まるで二人の会話を見ているようだ。 では、もし上の歌詞のうち黄色がガイのセリフや思考だとしたら、この曲はどう受け取れるだろうか。 特に注目したいのは、以下の会話文である。サビ①、サビ②「今が生涯 最の底辺だって憂いたくなるよな」サビ②「安全策は無い この地獄から 抜け出したいのさ」 「今が生涯 最の底辺だって憂いたくなるよな」はまた、すでに考察したように、「仕様がない」はガイの口癖であった可能性が高い(ロンの大雑把な対応にも「仕様がないな」といって対応してそうなイメージだよね?)。それが、ガイが彼自身の運命自体を「仕様がない」と思っているせいだとしたらどうだろうか?サビ①では自身の運命を憂い、サビ②では愛した女性から殺されるという運命を憂いているのだとすれば、彼は自身の運命を地獄と感じていたともとれるのだ。その場合、「この地獄から抜け出したい」というセリフが、ガイのものでも間違いではない。もしかすると、ガイ自身、自分の運命を変える何かを期待し、 そのようなガイの感覚でこの曲をもう一度見てみると、 そしてもう一つ注目してもらいたいのが、「愛はない」という歌詞だ。サビ①「そこに愛はない、愛はない」と喚いていたサビ②「此処に愛はない、愛はない」と願っていたサビ③「愛は」「ない」と悟って歌う これらの「愛」関するセリフは、最後のサビ③の動画で二人の掛け合いになることから、サビ①では、 また、「そこ」と「此処」では、もちろん「此処」のほうが近い距離を表す指示代名詞である。つまり、サビ①の時点よりも、サビ②の時点では二人の距離は近づいているといえるわけだ。サビ③での「愛はない」が「どこに」ないことを指すのかははっきりとはしないが、会話文が二人の掛け合いなのであれば、それは明白だろう。 一方、この「愛はない」という歌詞は、それだけでも二人の掛け合いのように取れる。サビ①でしかし、サビ②では上記の言葉に対し「ここに愛はない」と、連れてこられたガイの傍には愛はなかったと答えるそして、サビ③では、ガイは「愛」があることを口に出そうとするわけだが、それは この「愛はない」は、考え方次第でいかようにもとれるわけだが、結局のところ、 ガイの名前である このガイとこの そしてもし、彼が「愛はない」と言いながらも無意識に「愛」を探していたのだとすれば、それはとても悲しい話だ。最後の「愛はない」の「愛は」では、ガイが口を開くのを阻止するようにもしかすると、ここはガイがけれども最後に見つけた「愛」は、それを囁く前に、 この曲のもととなったのは、最初に述べた通り、さそり座の神話だ。オリオン座とさそり座は、同じ空に浮かぶことはない星座である。神話では、オリオンがサソリを怖がり、サソリがいなくなってから姿を現すのだと言われている。しかし私には、この曲のガイと 最初に述べた通り、本作品は、『紗痲』へとつながっていくepisodeとなっている。 『紗痲』での 問題となるのは、クレイとそっくりのリヴァラの存在である。『紗痲』でも『キルマー』でも、捕らえられた私個人としては以下の理由から、クレイはリヴァラの血縁もしくは生まれ変わり説を推す。 1.
最近チェックした歌詞の履歴この歌詞をスマホで見る 回想シーン紗痲の最初の回想シーンでは子どものクレイと大人のここでのクレイの「気づかないわけもないんだよな」というセリフは、この子供の頃もしくは前世の記憶的なものからきていたのかもしれない。また、ここのシーンでは模様のようなデザインとして切れたロープのようなものがあるが、これは これらの理由から、個人的には、 (ちなみに、ハンナの髪型を今の 私は、『紗痲』の中で、なぜ このあたりは、きっと次の作品で明らかになっていくと期待して、煮ル果実氏を待っていよう。 ベルベットロープは先にも述べたようにこのアルバムはDVやSMなど性的なテーマを赤裸々に表現したアルバムで、賛否両論を呼んだ作品だ。特に彼女の同性愛を肯定するような表現は『紗痲』は、ご存知の通り、同性愛をテーマにしたものであり、本作『キルマー』はある種DVをテーマにしていると思われる。 どちらも「愛」ではあるが、その受け取り方は人によって様々だ。「愛」には自分を曝け出すことが必要であり、それはつまり、自分のベルベットロープを外し相手を招き入れるということだ。また、そのベルベットロープで囲う形によって自分は構成される。つまり、このロープ次第で新たな自分へと成長することもできる。しかし、ベルベットロープを外し、自分を曝け出すということは、自分が傷つく可能性も高くする。様々な愛に対して人の評価もまた様々であり、また、ベルベットロープを外したからと言って、自分の愛を相手が受け入れてくれるかどうかは別問題だ。この作品で 以上、長くなってしまいましたが、『キルマー』の考察・解釈でした。かなり妄想(特に解釈も「愛」と同様に人それぞれだと思いますが、それを否定ではなく議論することができればもっといいものが作れると思っています。ですので、もしご意見等あれば、いただけると嬉しいです。 その他、煮ル果実氏の作品解釈はこちら↓↓↓