織田信長 政策 ねらい織田信雄 有 能



<< endobj ( 相沢忠洋 )氏により( 岩宿 )遺跡が 群馬県で発見. これも台風の影響なんでしょうか、台風が通過したあと一気に気温が上がり、今日は関東では35度超の猛暑日になったそうです。5月に訪れたばかりの群馬県太田市の近くにある館林市は38度だったそうです。こうなると、日中にウォーキングするのは命がけですから止めておいたほうがいいですね。日が沈んでから何人か一緒におこなってください。水分補給を忘れずに・・・・・。◆有名な寺々を結ぶ道から少しだけ離れたところにあって、ひっそりとしたたたずまいの、等持院。受付を済ませて庫裏に入ると、いきなり大きな達磨図の衝立が目に入ります。これは天龍寺にもあるものと同じで、元天龍寺派管長であり等寺院の住職でもあった関牧翁が描いたものです。  達磨図を見ながら右に行くと方丈と南庭園があります。方丈は1616年福島正則が建立した妙心寺・海福院から移設したものだそうです。方丈の床は「うぐいす張り」で歩くたびにキュッキュと良い音がしていました。 方丈の先にあるのが“霊光殿”霊光殿には、尊氏の念持仏の地蔵尊像を中央に、禅宗の祖師・達磨大師像と等持院を開山した夢窓国師像がまつられています。その左右の壇上にずらりと並ぶ足利15代歴代将軍の木像(実際に壇上にある数は13です)は壮観です。 1863年には、尊王攘夷派の志士たちが霊光殿に押し入り、尊氏、義詮、義満像の首を斬り、三条大橋の橋詰めにさらすという事件も起きたのですが、修復されました。とんでもないことをする人たちがいたものです。足利尊氏は朝敵扱いだったということですね  ◆1351年高兄弟を失っていったんは平穏が戻ったものの、政権内部では直義派と反直義派との対立構造は存在したままで、それぞれの武将が独自の行動を取り、両派の衝突が避けられない状況になっていました。高一族滅亡から半年も立たないうちに、腹の虫が治まらない尊氏は直義派の一掃を図るため、戦果の恩賞や処罰を自派に有利に進めたり、直義派の細川顕氏を太刀で脅して強引に自派へ取り込むなど、直義派の取り崩しを進めます。1351年3月直義派の事務方の武将である斎藤利泰が何者かに暗殺され、5月には直義派の最強硬派である桃井直常が襲撃され辛くも危機を脱するという事件が発生しました。尊氏は、近江の佐々木導誉と播磨の赤松則祐らが南朝と通じて尊氏から離反したと嘘をつき、7月に尊氏は近江へ、義詮は播磨へそれぞれ出兵することで、東西から直義を挟撃する体制を整えました。もう、何がなんやら、誰を信じて良いのやらという状況になってきましたが、尊氏と直義の兄弟の争いはさらに混迷を極めます。8月身の危険を感じた直義は桃井、斯波、山名をはじめとした自派の武将を伴って京都を脱出し、自派の地盤である北陸・信濃を経て鎌倉へ逃亡しました。 さらに、尊氏はあっと驚く戦略を考え実行します。尊氏は直義と南朝の分断を図るため、今度は南朝からの直義・直冬追討の命令をもらうため、南朝に和議を申し出たのです。この要請に対する南朝からの条件を飲むことにより、北朝が保持している三種の神器を南朝に渡し、北朝は政権を返上することになります。明らかに北朝に不利な条件でしたが、1351年10月尊氏は条件を受け入れ、南朝に降伏して直義・直冬追討の命令を得ることになります。この和睦に従って南朝の勅使が入京し、11月北朝の崇光天皇は更迭されます。また、年号も北朝の「観応2年」が廃されて南朝の「正平6年」に統一されます。これは「正平一統」と呼ばれ、結局のところ、南朝側への政権の無条件返還となったわけです。こうして、南朝からの直義・直冬追討の綸旨を得た尊氏は、東海道さらに鎌倉で直義と戦い撃破。1352年1月直義はついに降伏し、まもなく死去しました。この日は高師直の1周忌にあたり、『太平記』には尊氏による毒殺であると記載されています。こうして、全国を巻き込んだ兄弟げんかは一応終結することになります。 《続く》 2014/07/11コメント(0)結局、今日の神戸は雨風ともに心配するようなこともなく、夕方には晴れてきました。でも、この台風の影響で予定を変更せざるをえなかった方も多かったでしょうね。長野県では土石流が発生したりして大きな被害が出ていますが、お会いしたみなさんが何事もなく過ごされていることを祈るばかりです。◆さて、後醍醐天皇を弔うために足利尊氏が建てた天龍寺を後にして、次の目的地"等持院"に向かいました。等持院には嵐電に乗って行くことにしました。天龍寺を出るとすぐに嵐電の嵐山駅があります。等持院に行くには途中"帷子ノ辻駅"で北野白梅町行きに乗り換えます。私は、嵐電の嵐山から北野白梅町までの駅名が本当に京都らしくて大好きです。嵐山⇒嵐電嵯峨⇒鹿王院(ろくおういん)⇒車折神社(くるまざきじんじゃ)⇒有栖川(ありすがわ)⇒帷子ノ辻(かたびらのつじ)⇒常盤(ときわ)⇒鳴滝(なるたき)⇒宇多野(うたの)⇒御室仁和寺(おむろにんなじ)⇒妙心寺(みょうしんじ)⇒龍安寺(りょうあんじ)⇒等持院(とうじいん)⇒北野白梅町(きたのはくばいちょう)一つ一つ駅を降りてみたいという気持ちにさせられます。これは4月に嵐電に乗ったときの写真ですが、一つ一つの駅は1両の電車が停止できるだけの大きさですからこじんまりしています。  この嵐電に乗って等持院に向かいました。等持院はもともと、仁和寺の子院(塔頭)のひとつであったと言われています。それを、足利尊氏がこの地に移築して等持寺の別院として中興、夢窓疎石(むそうそせき)を迎え開山しました。こちらの等持院は京都の北部に位置し、閑静な住宅街の中にあり、すぐ北には立命館大学があります。先ほどの山門をくぐった先も住宅街が並んでいました。   山門をくぐり、どんどん奥まで歩いて行くと、見えてくるのがこちらの門。この奥からが境内になっています。  等持院をご存知の方は少ないと思いますが、「足利家歴代将軍」の菩提寺として知られています。ちなみに足利尊氏の葬儀がこちらの等持院で行われて以後、「足利家歴代将軍」の菩提寺になりました。   こちらの庫裏から中に入っていきます。 ◆ 直義がまた立ち上がったことで、ここに師直と直義の間の緊張は再び高まることになります。1950年に入ると、長門探題に任命されて備後に滞在していた足利直冬(直義の養子)が、拡大させた勢力を背景に大宰府の少弐頼尚と組み、なんと南朝方とも協調路線を取り始めます。 西で拡大する直冬の勢力が容易ならざるものと見た尊氏は、隠居生活もしていられなくなり、ついに自ら追討のために出陣します。しかし、その隙に直義はしばらくして京都を脱出すると、畠山国清に迎えられて河内石川城に入城、高師直・師泰兄弟討伐を呼びかけ細川顕氏、山名時氏、斯波高経までも味方に付けて決起します。これが擾乱の始まりということです。直義方のこうした動きに直冬討伐どころではなくなり、尊氏は備後から軍を返そうと考えます。そして、北朝の光厳上皇による直義追討令が出されると、今度は直義がなんと敵であるはずの南朝と講和し味方を集めます。1351年1月、直義軍は尊氏や高兄弟のいない京都に進撃します。留守を預かる足利義詮は備前の尊氏の下に落ち延びることになります。2月、尊氏と高兄弟軍は京都を目指すのですが、播磨光明寺合戦及び摂津打出浜の戦いで直義軍に相次いで敗北してしまいます。南朝方を含む直義の優勢を前に、尊氏は代理人を立てて直義との和議を図ることになります。尊氏は助命を嘆願したのですが、結局、高兄弟は摂津から京都への護送中に、待ち受けていた直義派の上杉能憲(師直に殺害された上杉重能の養子)の軍勢により、摂津武庫川で一族と共に「親父の仇!」と、殺されてしまいました。長年の政敵を排した直義は義詮の補佐として政務に復帰します。結局、直義は高兄弟さえ亡き者にすればそれで良かったわけで、兄である尊氏とは基本的に争いたくはなかったというところでしょうか。しかし、何一つ思うようにならないという屈辱を味わった尊氏は、腹の虫が治まりませんでした。  《続く》 2014/07/10コメント(0)毎日台風が気になりますが、離れた佐渡島で大雨ということで、最近の天候はほんとうに解らないですねぇ。しかも、沖縄では、なんとプロ野球のナイター(巨人×DeNA)をやっているのには驚きました。 大方丈に上がらずに庭から曹源池に廻ります。中に入ると、法堂が見えます。  曹源池畔の北端から見た「大方丈」です。「大方丈」は明治時代に建設されたといわれる大建築で、周囲が回廊になっており、回廊からの拝観が可能です。   天龍寺を有名にしているのは「大方丈」の西側に展開している「曹源池庭園」です。この庭園は名園中の名園として有名です。「曹源池庭園」は夢窓国師の作庭とされていますが、亀山離宮の庭園を利用したとの説もあるようです。      この庭園は池中に立石群を配し、嵐山、亀山を借景として取り入れ、独特の日本画のような美しさを見せています。夢窓疎石がこの池の底の泥をさらえたという伝承が残っています。 池の底をさらえたということは、かつてはこの池の中で舟遊びをしたということでしょう。そして、さらえた泥の中から、「曹源一滴」(そうげんいってき)と彫られた石が見つかったといいます。 曹源一滴とは、禅の言葉で、「一滴の水があらゆる命の根源である」という意味です。この由来から、池は曹源池と名づけられたということです。 いずれにしても雄大ですね。  大方丈から小方丈へは、この長い廊下を渡っていきます。この上をパタパタと渡っていくのって風情ありました。紅葉の時期にはまったく違う風景を見ることができるのでしょう。  訪れた時にはこのように見事な花が咲き誇っていました。  「愛の泉」地下80メートルから沸き上がる霊泉は、飲む事も出来るそう。そこにいるのがカエル、このカエルちゃんの前にはお皿があって、そこめがけてお金を投げ、見事入ると、幸せになれるらしいです。  嵐山に行くことがあれば、ぜひ天竜寺を訪れてみてください。その時はカエルちゃんを見つけてくださいね。 ◆さて、室町幕府が始まってもなかなか世の中は静まりません。南朝と北朝の戦いが続く中、とうとう高師直(こうのもろなお)と足利直義の内紛が勃発します。尊氏には高師直を筆頭に守護家の庶子や京都周辺の新興御家人が、直義には司法官僚・守護家の嫡子・地方の豪族がついており、前者が革新派、後者が保守派というところですね。これが、南北朝時代の1350年から1352年の観応年間に頂点に達した足利政権内の紛争の始まりです。しかし、実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家どうしの確執なども背景に敵味方が入り乱れて戦うことになる、いわゆる観応の擾乱(かんのうのじょうらん)の始まりということになります。政権成立後の頃、将軍尊氏は後醍醐天皇に背いたことを悔やんで仏教にはまり込み、ほぼ隠居状態にありましたが、そういう中、先手を打ったのは足利直義で、尊氏に迫って、高師直を執事職をクビにさせました。これに対し、高師直はクーデターを実行し、幕府の主要部を占領し、直義は尊氏の屋敷に逃げ込み、1349年尊氏の嫡男でその時鎌倉公方(かまくらくぼう)を務めていた足利義詮に自らの地位を譲ります。1349年11月に義詮が入京すると、直義は12月8日頭を丸めて出家します。ところが早くもその月のうちに上杉重能と畠山直宗が配流先で師直配下の者に暗殺されるという事件が発生します。ここに師直と直義の間の緊張は再び高まってきます。そして、後に第二代将軍となる尊氏の嫡男足利義詮(よしあきら)は、その争乱の渦に巻き込まれていくことになります。ちなみに、関東周辺の政務を担当する鎌倉公方は、これ以後尊氏の4男である足利基氏(あしかがもとうじ)が初代公方となり、その子孫が担当することになりました。それにしても、何故「尊氏と直義の兄弟」、「直義と高師直の高氏家」はうまくいかないのでしょうか。それは尊氏と直義の出生や、尊氏が将軍になるまでの足利家に仕える高氏と上杉氏に対する足利家の扱い方が影響しているようです。尊氏の父貞氏は、嫡男であった高義に家督を譲って家宰の高師重(師直の父)に補佐させていましたが、高義の死によって改めて高義の異母弟の尊氏が後継者になりました。ところが、家宰として尊氏を補佐しようとする高氏と、尊氏・直義兄弟を支えてきながらも長年庶子扱いされてきた上杉氏の間で対立が生じ、尊氏が家宰である高氏と政務の中心として置いた一方、脇に追いやられた上杉氏に直義は同情的でした。特に1338年に明確な理由がないまま上杉重能が出仕停止の処分を受け、同じく上杉憲顕が関東執事(後の関東管領)を高師冬(師直の従兄弟)に交替させられた事が、上杉氏と直義が高氏家への反感を高めた要因であると考えられています。ちなみに、尊氏と直義は同母兄弟で、母は上杉清子。上杉頼重の娘で足利貞氏の側室でした。このようなことにより、長い間に積もり積もった遺恨が、直義の高氏家に対する感情に大きく影響しているのでしょう。 《続く》 2014/07/09コメント(0)この時期に台風って嫌ですね。本州に上陸して関西直撃とかなると野菜が心配です これから収穫のピークを迎えるというのに ・・・・・ 。どうか来ませんように 。 1339年後醍醐天皇が亡くなりましたが、そこで足利尊氏は、後醍醐天皇の菩提を弔うため、京都に壮大な天龍寺を造営させます。これは、後醍醐天皇と仲がよかった禅宗のお坊さんである夢窓疎石(むそうそせき)の発案であったのですが、なんとか後醍醐天皇の冥福を祈りたいと考えていた尊氏は大賛成で、総力を挙げて完成させました。ちなみに、天龍寺造営に対しては、延暦寺が「建設反対!」と東大寺などと共に激しくデモをおこなっています。足利幕府になっても、浄土宗や禅宗に対しての旧仏教の圧力はあいかわらず続いていたのですね。【渡月橋】 天龍寺は、京都の観光地・嵐山の渡月橋を渡って北へ向かう観光客で賑やかな通りに面して門を構えています。嵐山・亀山を借景に緑豊かな境内が広がります。観光名所の渡月橋や天龍寺北側の亀山公園なども、かつては天龍寺の境内地であったといいます。暦応2年(1339年)8月、後醍醐天皇が崩御します。康永4年(1345)秋、疎石を開山に迎えて後醍醐天皇七回忌法要を兼ねて盛大に落慶法要が営まれたということです。初めは暦応資聖禅寺と名付けたのですが、比叡山が暦応の年号を寺号とすることに反対し抗議したため、幕府は天龍資聖禅寺と名付けました。比叡山の抗議がなかったら、天龍寺という名前は生まれていなかったということですねその天竜寺も今や世界文化遺産です。【法 堂(はっとう)】  まず入って最初に見えるのがこの法堂(はっとう)、中には開基である足利尊氏の木像が祀られています。法堂内は、撮影禁止のためポスターの龍の図で我慢してください。これが、素晴らしい天井画の「八方睨みの龍」です!! 現在は、1997年に加山又造画伯によって描かれた龍の画が有名です。  天竜寺ではお馴染みの庫裏ですね。ここから方丈に入ります。    【庫 裏】  夢窓疎石とは鎌倉・室町時代の僧侶です。1275年伊勢に生まれ、九歳で出家します。当初は天台宗に学びますが、1293年疎山と石頭という禅寺に行って達磨(だるま)半身の画像を得るという夢を見て禅宗に目覚め、京都建仁寺で無隠円範に学びます。そして、この夢にちなんで、後に自らを夢窓疎石と名乗りました。後醍醐天皇の勅請により南禅寺に住み、また北条高時に請われて鎌倉浄智寺、円覚寺に住みます。鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の勅によって、京都臨川寺を開き、「夢窓国師」の号を賜ります。建武の親政が崩壊すると、今度は足利尊氏や足利直義の帰依を受けます。天竜寺方丈前の庭は疎石の作ですが、嵐山を借景としたこの美しい庭から、彼がすぐれた作庭家でもあったことが窺われます。多くの門弟を育て、その数は一万人以上であったと伝えられています。夢窓、正覚、心宗など、生前と没後あわせて七人の天皇(院)から国師の号を授けられたことから、「七朝帝師(七朝国師)」と称され、多くの天皇や武将から尊崇されたことがうかがえます。 方丈に入ると達磨の掛け軸がありました。これが、夢窓疎石が夢に見たという達磨半身の画像なのでしょうか。 ◆足利尊氏は、後醍醐天皇の菩提を弔うため、京都に壮大な天龍寺を造営させたわけですが、それだけでなく鎌倉幕府の最後の執権であった北条高時を弔うために鎌倉に宝戒寺を、新田義貞のために彼の故郷である世良田(群馬県太田市 *旧新田郡)の長楽寺へ寺領を寄進。さらに、直義とともに、これまでの戦死者を弔うため、全国に1つずつ、寺と塔を造らせました。それが、いわゆる安国寺と利生塔です。足利家としては、もともとは北条氏鎌倉幕府に御家人として仕えており、そこで同じく御家人だった新田義貞とは、後醍醐天皇のもとで一時はともに戦った同志であったわけです。そういうこともあったのか、尊氏とすれば最後は敵味方に別れ戦った相手であっても、一連の戦いで亡くなった多くの人たちともども、何らかの形で弔わないと前に進むことができなかったのかもしれませんね。しかしながら、戦は収まらず、北朝と南朝の戦いは再びヒートアップしていきます。あの楠木正成の息子、楠木正行(まさつら)が成長し、南朝の主要な軍事勢力として各地で足利軍を撃破していきます。特に、足利軍の細川顕氏、山名時氏連合軍を、大阪の住吉と天王寺で撃破したことは、尊氏らをビックリ仰天させ、高師直、高師泰(こうのもろやす)兄弟らを先鋒に、足利直義などを足利軍の主要メンバーを取り揃えた大軍を派遣することになります。1348年、四条畷の戦いで高師直軍が楠木正行軍を破り、正行は自害して果てました。どうやら、正行は南朝政権から「正面突破で大軍を撃破してね」と、勝ち目のない命令を受け取っていたということです。これも南朝の焦りということでしょうか・・・・・。 《続く》   2014/07/08コメント(0)京都に行って、室町幕府ゆかりの地を巡ってきました。なかなか見ることのない石碑を探し、在りし日の花の御所を思い描いてきました。 後醍醐天皇の死によって、本格的な足利家による新たな時代が京都を中心に始まったわけですが、京都に開かれた足利氏による幕府は、のちに京都内の所在地名から室町幕府(むろまちばくふ)と呼ばれるようになります。しかし、初代の尊氏の時代は室町とは別の場所にありました。 今出川通と室町通との交差点の北東の角に『足利将軍室町殿跡』という碑があります。これは、幕府がおかれていた三代将軍足利義満の邸宅の跡になります。そこは、のちに「室町御所」とよばれ、義満の時代には邸内に花が多く植えられていたことにちなんで「花の御所」とよばれていました。【足利将軍室町殿跡】烏丸今出川の交差点を西へ行ったところに室町通りがあり、そこの交差点の「西・北」側に「足利将軍室町第跡」の石碑があります。  【花の御所石碑】ここは探すのに苦労しました。同志社大学の烏丸通りを挟んで向かい側にある、大聖寺の境内に写真の「花の御所」の石碑が建立されています。【花の御所石敷き遺構】 同志社大学寒梅館の上立売通側の敷地内で発掘された石敷き遺構  現在、足利家の幕府は「室町幕府」といわれていますが、足利将軍の本拠地はつねに室町の花の御所にあったわけではなく、歴代の将軍の屋敷が幕府とされたのです。従って、足利尊氏の屋敷は二条高倉に、二代将軍義詮(よしあきら)は三条坊門にありました。しかし、六代将軍義教や八代将軍義政が本拠地を花の御所に戻したように、足利家の人々にとって室町幕府の繁栄をもたらした義満はあこがれの的であったということです。 その足利尊氏邸があったとされるところに石碑立っていました。【足利尊氏邸 等持寺跡】御池通と高倉通の交差点の少し北側にあります。 尊氏はこの邸で政務を執り、没したそうです。のちに等持寺という寺院に改められ、足利氏の菩提寺として崇敬を集めたということです。そして、その近くに足利家に縁が深いという神社がありました。【御池の八幡さん】 御所八幡宮は、室町時代を通じて、天皇家や歴代足利将軍家の崇敬を受けて栄えますが、応仁の乱以降の戦乱によって衰退しました。 さて、後醍醐天皇の死を受けて、足利尊氏が行ったことは意外なことでした。なんと尊氏は、後醍醐天皇の菩提を弔うため、京都に壮大な天龍寺を造営させたのです。その天竜寺を訪れてきましたので、紹介しながら後醍醐天皇亡き後の室町幕府の時代がどうなっていったのかみていきます。 《続く》 2014/07/04コメント(0)サッカーのワールドカップもベスト8が決まりました。結局は南アメリカとヨーロッパ勢ということになりましたが、超一流の選手たちの戦いは迫力満点で見ごたえがありますね。 サッカーの“動”の見ごたえに対し、こちらは“静”の見ごたえということになります。大徳寺龍源院にある日本最少の石庭です。【方丈坪庭東滴壷(とうてきこ)】日本最小の石庭。白砂に五個の石で構成、一滴がやがて小川、大河、大海となる様を表現しています。 【方丈北庭竜吟庭(りょうぎんてい)】三尊石組からなる須弥山式の枯山水庭園、相阿弥作庭と伝えられています。全面を覆う杉苔は大海原、石組は陸地を表しています。 中央の高い奇石が須弥山で、世界は九つの山と八つの海からなっていて、須弥山はその中心にあります。 【方丈前庭一枝坦(いっしだん)】手前苔山亀島、中央蓬莱山、右鶴島を表し白砂が大海原を表現しています。 【方 丈】(重要文化財)入母屋造、檜皮葺。桟唐戸は禅宗様。室町時代1502年の建立です。日本最古の方丈建造物で禅宗方丈建築様式唯一の遺構とされているそうです。  襖絵には迫力満点の龍が描かれています。 唐門の庭園側が見えます。 鎌倉末期の1319年に禅林の双璧と称された大燈国師によって創建され、それ以後時の政治権力と深くかかわりあって、ある時は栄えまたある時はその地位が下落するという正に栄枯盛衰の華々しい流れを生き抜いた大徳寺。1334年に後醍醐天皇がこの大徳寺を保護し、京都五山の上位に位置づけました。その後、足利氏が天下を取ると、逆に後醍醐天皇との関係が深かったために、大徳寺は五山十刹から除かれてしまうというように、まさに時代の流れに翻弄されながらも、現在に至るまで禅宗の文化を守り抜いてきました。大徳寺、なかなか見ごたえのある禅宗の寺院でした。また、ゆっくり訪れたいですね。   ◆初期の足利幕府の体制は、1.足利尊氏 ・・・ 主に軍事や人事を担当2.足利直義 ・・・ 主に政治や裁判を担当という、要は兄弟で役割を分担したということです。二人が仲がよかったころは、二馬力でガンガン問題を解決できるのでよかったのですが、幕府を開いたころから、尊氏はだんだん政治に口を出さなくなってくるんですね。どうも、後醍醐天皇を追い出したことに「申し訳ない」と思っていて、憂鬱だったようです。その証拠に、後醍醐天皇を隠岐に流すなど、強力な措置をとることも無く、吉野にいることを許していました。そのうちに、次第に尊氏が持っていた権限は、執事の高師直(こうのもろなお)らが担当するようになり、次第に足利直義陣営と対立していきます。 そういう状況の中、北朝と南朝の戦いは続きます。1338年に石津の戦いで南朝の若きホープ、北畠顕家が高師直の軍勢に敗北して戦死(なんと、わずか21歳でした)。さらに、越前(ふくいけん)の藤島の戦いで新田義貞が斯波高経(しばたかつね)、細川孝基(ほそかわたかもと)の軍勢に敗北して戦死し、南朝の中核となっていた武将が全滅状態となります。その年、足利尊氏は征夷大将軍に任命されますが、その翌年の1339年、失意のうちに後醍醐天皇は亡くなりました。《「室町時代が始まるまで」 終わり》 2014/07/02コメント(0)7月に入りましたが、神戸は雨の少ない梅雨という感じです。本格的な暑さはこれからでしょうが、夏に負けない体づくりをしておきたいですね。   さて、大徳寺塔頭巡りもいよいよ最後です。訪れたのは"龍源院"です。 大徳寺塔頭龍源院は、大徳寺山内で最古の寺です。大徳寺南派の法源地本院。室町時代1502年大徳寺七十二世東溪宗牧を開祖として、能登の畠山義元、豊後(大分県南部)の大友義長、周防国(山口県東南部)の大内義興らにより創建されました。【龍源院】表門(重要文化財)。切妻造、四脚門、檜皮葺。1502年建立。 庫裡。拝観入口になっています。  方丈に通じる参道、前方は唐門ですが閉門です。   書院、掛け軸には禅の言葉『日々是好日』が書かれています。  この書院には、1583年在銘の日本最古の種子島銃や秀吉と家康が実際に対局した四方蒔絵の逸品の重要美術品などが展示されていました。 【こ沱底(こだてい)】               【西の「阿の石」】書院軒先のこ沱底は「阿吽の石庭」と云われ、白砂と聚楽第の基礎石が東西に配されています。左右にそれぞれ「阿の石」と「吽の石」の2つの石で構成された本当にシンプルな石庭です。  ◆兵庫の津へ入った足利軍は、湊川の戦いで待ち構えていた楠木正成軍に勝利します。そこで楠木正成は戦死します。さらに、新田義貞軍も撃破し、1336年ついに京都を占領します。鎌倉幕府を滅ぼしてから3年、鎌倉から九州にかけての長い戦いに一応の終止符が打たれたことになりますが、実際はこれで戦いが終わったわけではありませんでした。 後醍醐天皇から、天皇の証である三種の神器を取り上げ、光厳上皇の弟である光明天皇を即位させます。これが、いわゆる北朝の成立です。ところが、実は三種の神器はニセモノ。本物を誰が譲るものか!というわけで後醍醐天皇は、現在の奈良県の吉野に逃れ、「我はここにあり!みんな、逆賊を討伐せよ!」と、引き続き足利尊氏との戦いを続けます。この後醍醐天皇の政権を南朝といい、ここに約半世紀にわたる南北朝の争いが始まります。ちなみに、北条時行は南朝に降伏し、足利尊氏と戦う道を選択します。これがいわゆる南北朝時代(1336年~1392年)の始まりです。尊氏は1336年、建武式目(けんむしきもく)を定めます。これで実質的に足利氏による幕府が開かれたことになります。1.幕府の場所は京都にする 2.倹約に務め、遊興を抑制する。3.人々の家を勝手に没収しない。4.公家・女性・僧侶などの政治への介入禁止5.賄賂は禁止、守護にはきちんとした人物を任命する。 などといった内容です。新たな幕府の組織は鎌倉幕府の仕組みを基本的に受け継ぎますが、執権の代わりに管領(かんれい)を置いたこと、そして守護の力が非常に強力になり、自らの領地にどっしりと根を下ろしていくことになります。しかし、この足利尊氏による幕府はあくまでも北朝が認めたものであり、南朝との戦いは依然として続くことになるため、戦乱が治まり世の中が落ち着くまでにはまだまだ長い年月がかかることになります。 《続く》 2014/07/01コメント(0)大徳寺塔頭巡り、次に訪れたのは"総見院"です。総見院は、本能寺の変での明智光秀の謀反により49歳の生涯を閉じた織田信長の菩提寺です。創建は1583年信長の一周忌を迎え、その追善のため豊臣秀吉が建立したものです。   【本 堂】この本堂には、衣冠帯刀の信長の木造座像(高さ115cm)が安置されています。ちょうどこの日は特別公開日ということで、拝観できました。数百年を遡り、秀吉も目にした信長像が、今私の目の前にある...それだけで、あらためて大きな感動を感じました。その強く印象的な眼差しには気迫を感じ、朝廷から与えられた官位に値する衣冠帯刀で威儀を正している姿に、気高さを感じました。 【茶 室】   境内には茶室が3つあります。これは北野天満宮で開かれた北野茶会の前に、大徳寺大茶会をここ総見院で行ったからだそうです。  そして、本堂横には朝鮮から持ち帰ったとされる石で造られた掘り抜き井戸があります。この井戸水は大変澄んでいて、井戸の底まで見ることができる程純度が高いということです。 総見院の奥にある「織田信長一族供養塔」へ向かいました。信長の他にも、長男の信忠、次男の信雄、正室の濃姫など、信長一族のお墓が並びます。 【信長と織田一族の墓】 中央の大きな墓石が信長のものですが、遺骨がないため供養塔の色彩が強いということですね。  実際の所、本能寺の変で生涯を閉じた織田信長の遺体を見つけることができなかったので、その遺骨を供養していません。このことから、多くのお寺に織田信長のお墓ができてしまうことになったのですが、総見院では織田信長の木像を信長の代わりに火葬して供養しています。信長の木像は2体作られていて、一体は火葬、もう一体は本堂に祀られています。 信長の墓所や廟所や供養塔など縁のある社寺は全国に二十数か所あるそうですが、天皇の勅許を受けたこの墓は、信長の"オフィシャルなお墓"と言えるのだそうです。 【鐘 楼】重要文化財土塀、および鐘楼は創建当寺のもので、鐘楼と鐘は信長の家臣・堀九太郎秀政の寄進によるもので、銘文は開祖・古渓和尚の作、いずれも重要文化財に指定されています。 ◆ 足利尊氏は、九州にて2ヶ月もすると、あっという間にまた勢力を復活させます。その背景には何があったのでしょうか。まず、政治面で重要なのは、鎌倉幕府滅亡によって、後醍醐天皇によって「お前は天皇ではない」とされてしまった持明院統の光厳上皇から「新田義貞を討伐せよ」という院宣(いんぜん)を貰ったことです。これによって、足利尊氏は朝廷に刃向かう朝敵に指定されることを回避する大義名分が立ったわけです。朝敵討伐の証として、天皇から"錦の御旗"を授かることで、自分の行為を正当化することができ、官軍として堂々と戦うことができるようになったということです。しかし、これは一体なんのことでしょうか。以前にも紹介しましたが、鎌倉幕府の調停によって、本来は持明院統と大覚寺統から順番に天皇が即位することになっていました。それで、1331年に後醍醐天皇が鎌倉幕府転覆クーデターを起こしたため、鎌倉幕府は持明院統光厳天皇を即位させたんです。ところが、もちろん大覚寺派の後醍醐天皇は「私は絶対に認めない。天皇は私ただ一人だ!」と主張したため、天皇が二人いる状況になりました。ところが、鎌倉幕府が滅亡すると光厳天皇は捕まってしまい「お前は天皇ではない」と、後醍醐天皇に処遇されてしまったわけです。しかし、光厳天皇改め、光厳上皇も「そんなこと認めるか~!」と反発。そこに、足利尊氏が反乱を起こしたのだというのですから、これはもう尊氏に協力するしかないと考えます。「皆さん、後醍醐天皇ではなく、私こそが正統な天皇だから、その私の支援者である足利尊氏に協力しなさい」というわけです。尊氏は、多々良浜の戦いで菊池武敏を破って勢いにのるのですが、足利軍は戦力的には圧倒的に不利だったにもかかわらず、敵軍の多くの武将が裏切り、尊氏側に寝返ったことで勝利を収めることができたわけです。これも錦の御旗のお蔭ということでしょうか。いずれにしても、尊氏は多々良浜の戦いで勝利し、陸と海から一気に中国地方を東へ、兵庫を目指して進撃が始まります。 《続く》2014/06/26コメント(0)大徳寺塔頭巡り、次に訪れたのは芳春院 (ほうしゅんいん)です。 芳春院は、右手に大仙院を見ながら、石畳のうえを歩いて行きます。ここを歩いているだけで、心が洗われるような気分になります。  この先を右に曲がったところにありました。大徳寺の一番北に位置します。残念ながら、ここは非公開でした。 芳春院 (ほうしゅんいん)入口の門から方丈の写真だけは撮ることができました。芳春院は、1608年玉室宗珀を開山としてまつ(後の芳春院)が建立しました。まつは加賀百万石の祖・前田利家の妻で、2002年NHKの大河ドラマ「利家とまつ」で放映されました。前田家の菩提寺で、境内には芳春院尼(まつ)・前田利長・利常などの前田家の墓があります。客殿背後の庭園は市内でも珍しい楼閣山水庭園で、「飽雲池」といわれ、杜若や睡蓮が美しく映える庭ということです。1617年小堀遠州の作と伝わっています。打月橋で結ばれ池中に立つ二重楼閣建築の呑湖閣は春屋宗園の昭堂で、庭と同年の建築ですが、現在の建物は1804年に再建されたものです。金閣・銀閣・飛雲閣と並んで京の四閣といわれています。 次の塔頭は"瑞峯院" 、 瑞峯院は、キリシタン大名大友宗麟の菩提寺です。  【瑞峯院(ずいほういん)表門】 豊後(大分県)の戦国大名であった大友宗鱗は、自分の菩提寺として瑞峯院を建立しました。大友宗鱗はキリシタン大名としても知られており、瑞峯院には7個の石で作られた十字架に見立てた庭があります。 【本院の玄関・前庭】 重要文化財に指定された方丈、唐門、表門は創建当時のままを伝えています。境内には大友宗麟夫妻の墓もあります。  【唐 門】  閑眠庭(方丈北庭)、独坐庭(方丈南庭)、茶庭(中庭)三つの枯山水の名庭があります。 【閑眠庭】  閑眠庭には、キリシタン大名大友宗麟にちなんで十字架が隠されているそうです。   ◆  敗北して九州まで逃れた足利尊氏ですが、実はいったん九州に撤退するよう進言したのが大友貞宗(おおともさだむね)で、つまり先ほどの瑞峯院の大友宗麟は貞宗から8代目ということになります。なんとか京都を脱した足利軍は、さらに兵庫(神戸方面)へ撤退します。さらに追い打ちをかけようとする義貞でしたが、ここらあたりから、両者に水軍が加勢しはじめます。天皇方には土居・徳能の水軍、足利方には大友・大内の水軍・・・こうして戦いは、更なる展開を見せるかに見えましたが、尊氏の加勢に現われた大友貞宗(おおともさだむね)が、度重なる敗戦で意気消沈する尊氏に進言します。「このままの状況であれば、とても勝てるとは思えない。幸いな事に、多くの軍船があるので、ここは一つ九州へと撤退してみたらどうでしょう。九州には味方がいるので多数の者が加勢してくれるはずです。そうなったら、大軍を編成して、またまた京に攻め上る事もできますから」と・・・彼の提案に納得した尊氏は、早速、大友貞宗の用意した船に乗り込み、一路、九州へと向かった尊氏は、まもなく筑前多々良浜(たたらはま=福岡県東区)の港に上陸しますが、この時従う将兵は、わずかに500未満だっということです。なんせ、いくら船がたくさんあると言っても、何千何万という軍勢の全員が乗れるほどにはありませんから、やむをえず多くの兵士をあの兵庫の港に置いてきたためそうなってしまったわけです。  《続く》  2014/06/25コメント(0)大徳寺には、戦国武将に関わりの大きい塔頭が多くあります。 まずは、細川忠興の『高桐院』を訪ねました。 22カ寺の塔頭を持つ大徳寺の広い境内で、"高桐院"は竹林のある片隅にひっそりとたたずんでいます。高桐院は、細川忠興が1601年に建立しました。開基は玉浦宗紹(忠興の叔父)で本堂正面にお祀りしています。  書院は利休屋敷から移したもので、茶席「松向軒」は秀吉が北野大茶会を催した時の移築です。細川家歴代の墓が並び、細川ガラシャの墓石となっているのは当時天下一と呼ばれた利休愛蔵の灯籠です。  ガラシャ ファンを中心に人気のある高桐院ですが、この門をくぐるとそこは別世界。庭の苔がそれを囲む竹林が、独特の静寂な空間をつくりあげています。  高桐院の散り紅葉は緋毛氈をひきつめたようになり、苔とのコントラストがさど素晴らしいことでしょう。紅葉の名所でもある高桐院、紅葉のシーズンにもう一度訪れたいですね。 ◆ 北条氏の残党が起こした中先代の乱により、鎌倉がわずか20日間ですが占拠されます。しかし、これで足利尊氏にとっては兵を立ち上げる理由ができました。そこで、「・・・というわけで、北条時行討伐に出陣しますので、征夷大将軍に任命して下さい。」と、尊氏は後醍醐天皇に頼み込むのですが、「鎌倉行きも将軍就任もダメ!代わりの者に行かせる」と、拒否されてしまいます。そこで尊氏は、勝手に征東将軍を名乗り、鎌倉へ出発します。そして、北条時行らを追い出し、鎌倉に居座るようになりました。さらに、功績のあったものに対して、自分で恩賞を与え始めます。こうなると、さすがに後醍醐天皇も放置できません。ついに足利尊氏討伐を決意します。まずは新田義貞を鎌倉に向けて出陣させて、足利尊氏と戦わせますが、箱根竹ノ下の戦いで尊氏が勝利します。勢いに乗った尊氏と直義の兄弟は京都に攻め込み占領します。しかし、陸奥将軍府から北畠顕家(きたばたけあきいえ)が後醍醐天皇の要請に応じて出陣すると、足利軍を破り、鎌倉を占領し、さらに京都も攻略します。そして、尊氏は敗北して九州まで逃れました。 北畠顕家とは1333年から始まった建武の新政に父である北畠親房が後醍醐天皇に協力すると、北畠顕家も陸奥国多賀城(宮城県多賀城市)で東北地方の統治を行いました。1335年には、鎮守府将軍となり、後に足利尊氏が征夷大将軍についたことに対抗すべく彼も鎮守府大将軍と成っている。この年、足利尊氏が建武の新政に対し反旗を翻し京都を進撃したことを受け、北畠顕家も京都を目指します。この時、顕家の率いた軍の進撃速度は日本屈指の速度であり、奥州白河関から遠江に至る600kmの道のりをたった16日で進撃している。これがどれほど異常のことだろうかは、速い速いと言われている豊臣秀吉の中国大返しでさえ10日間で200kmであることを考えればお分かりいただけると思う。更に、豊臣秀吉の通った山陽道は古くから道が整備されている上、姫路までの道は自身の領土であったのに対し、顕家が通った道は、当時は人や馬が通れるかどうかの獣道であり、加えて関東や東海道は全て尊氏の勢力範囲であったことを考えると、それは神業としか言いようのないような進撃であったということです。しかも、彼はその行軍速度を維持したまま京都に達し、しかも疲れ果てているであろうその軍で尊氏の軍を破っています。ちなみに、この時彼は十八歳というから驚きです。そもそも18の若造が、従二位とか賜って、鎮守府大将軍や権中納言を授かって、奥州豪族たちを平然と従えてる時点で彼の凄さは推して知るべしということでしょう。 《続く》2014/06/24コメント(0)真珠庵の隣にある塔頭が"大仙院"です。「気は長く、心は丸く、腹立てず、人は大きく、己は小さく」一度は聞いたことがあると思います。これは、大仙院住職尾関宗園さんの名言です。豪快な説法で知られる名物の和尚さんです。かなり若いときに住職となってから、テレビの人生相談に出たり、数多くの著書を書いたり、はたまた対談CDを出してみたり、いろいろ方々で精力的に活動しています。この大仙院は大徳寺塔頭の中でも特に由緒ある塔頭です。【大仙院】この門から入っていきます。  【玄 関】国宝 この玄関から中に入るわけではありません。  国宝の玄関とは反対の方に受付があり、そこから方丈に入ります。大仙院方丈は室町時代のものでわが国最古の方丈建築で国宝です。 方丈は1513年に建築されたもので、その方丈と方丈を囲むように造られた庭園が一体となって作庭当時の姿を今に伝えている点でも大変貴重なものと言えます。 庭園は本堂の四方に展開しており、南側は玄関脇の白砂敷に二つの盛砂が並べられて大海を表し、西側はやはり白砂敷の上に数個の石と1本の樹木が植えられた簡素なものとなっています。しかし、本堂の東側に歩みを進めると、廊橋の手前、白砂敷の上に船の形に似た石などが据えられた見事な枯山水の庭が見えます。ここは大河を表し、石は「長船石」「釣船石」とも呼ばれています。この廊橋を過ぎると、庭園の北東角に見事な大石で組まれた堂々たる滝石組が現われます。滝石組の前には、石橋が架けられ、また周囲にはツバキやゴヨウマツが植えられ、深山幽谷の風景を見せています。小さな敷地の中に山の水が川の流れとなって廊橋を隔てた大河へ、さらに南側の大海に流れ込む様子が象徴的に表現されています。禅の世界は深いですねぇ・・・・・・。庭園を限界まで縮めた大仙院のような作庭が行なわれたことで、枯山水の庭のあり方が定まったと考えられているそうです。 【大徳寺から見た比叡山】 そして、この方丈の中には千利休と秀吉が会したという茶室もあり、 実際に秀吉や利休が歩いたという床を歩きました。襖絵もまた、室町期の名作障壁画で相阿弥の山水画、狩野元信の花鳥図、狩野之信の四季耕作図など、教科書で見たことのある重要文化財が多くあります。大仙院の三世古径和尚は、豊臣秀吉の怒りにふれ加茂の河原で斬首された千利休の首を山内に持ち帰り手厚く葬ったというので、相当勇気のある和尚だったのでしょう。また漬け物の「たくあん」を考案したとされる七世の沢庵和尚(1573~1646年)が21歳の宮本武蔵に禅の極意を教えた所としても有名であり、その沢庵和尚が生活していた部屋にも案内していただき見ることができました。受付から先は撮影禁止でしたので、庭園や襖絵や茶室等々素晴らしい文化財を写真でお見せできないのが残念ですが、大仙院は見ごたえのある良い塔頭でした。 ◆後醍醐天皇と護良親王親子の分裂に成功した足利尊氏。征夷大将軍になるチャンスを窺っていました。そこに起こったのが"中先代の乱"(あまり知られていませんが・・・・・)最後の執権の北条高時の弟で北条泰家(ほうじょうやすいえ)は、分倍河原で新田義貞と戦って負けたあと、北条家残党のまとめ役の1人として暗躍していました。その北条泰家が、「あのころの栄光を再び!」と考えていた西園寺公宗がつながります。西園寺家は代々、鎌倉幕府と朝廷を結ぶ関東申次(もうしつぎ)という役職に在職し、もちろん北条家の勢いが盛んなころには、西園寺家も北条家の力を背景に、朝廷の中で大きな力がありました。ところが鎌倉幕府が滅亡と同時に西園寺家も力を失っていきました。西園寺家は西園寺公宗の息子、西園寺実俊が室町幕府の武家執奏に任じられ、再び勢力を盛り返します。そして子孫に、戦前の元老として大きな力を持った西園寺公望(さいおんじきんもち 1849~1940年)がいます。 「あの後醍醐天皇を殺せば、きっと我々の天下が戻ってきますよ」ということで、西園寺公宗は、後醍醐天皇を京都の北山へ紅葉見物に誘い、風呂に入ったときを見計らって殺害しようと画策しました。しかし、なんと弟の西園寺公重によって、その計画は天皇の耳に入ります。後醍醐天皇は難を逃れ、西園寺公宗は逮捕されます。さらに、公卿としては平治の乱(1160年)以来初めて、処刑されました。 そこで「計画失敗!今すぐ挙兵せよ!」と、信濃国の諏訪地方で挙兵したのが、北条時行(ときつら)。北条高時の次男で、諏訪頼重ら北条氏の旧御内人とともに鎌倉を奪還すべく、侵攻してきました。当時、鎌倉を守っていたのは足利直義でしたが、「これでは負ける」と考え、鎌倉から退却します。退却するとき、「生かしておいては危険」と、幽閉していた護良親王を殺害します。北条高時ら北条一門が自害した時、時行は叔父である北条泰家の命を受けた諏訪盛高に伴われて鎌倉を脱出、信濃諏訪社の諏訪頼重ら諏訪神党のもとに匿われていました。   以上が「中先代の乱」ですが、ちなみに「中先代」とは、鎌倉幕府執権の北条氏を「先代」、室町幕府を開いた足利氏を「当代」とみるとき、北条時行がその中間にあたることからそう呼ばれたとされています。この乱をきっかけに足利尊氏が動き始め、時代の流れは新たな方向へと動き始めることとなります。 《続く》 2014/06/20コメント(0)禅寺の特徴といえば塔頭ですが、大徳寺の広大な敷地内には20余りの塔頭があります。塔頭(たっちゅう) 本来、禅寺で、塔頭とは、寺院の敷地内にある子院のことを指します。 元来は、祖師や高僧の死後、弟子が師の徳を慕って、師の墓塔のまわりに立てたものでした。塔の中で首座にあることから「塔頭」と呼ぶ説もあります。それから転じて、寺院の敷地内にある、高僧が隠退後に住した子院のことも塔頭と呼ぶようになった。大徳寺や妙心寺は、とくに塔頭が多い寺です。枯山水の庭で有名な龍安寺も、妙心寺の塔頭のひとつです。 大徳寺の境内はこのとおり昔のままの風情があります。この両側にも多くの塔頭が並んでいます。  大徳寺には、多くの歴史上の人物と関わりがある塔頭や国宝をはじめとする多くの文化財のある塔頭があります。 その塔頭のいくつかを巡りましたので紹介していきます。【真珠庵】真珠庵は非公開です。 真珠庵は一休禅師を開祖に建立されました。方丈内部の襖絵は室町時代、桃山時代を代表する曽我蛇足、長谷川等伯の作品と言われています。石組みの配列から「七五三の庭」と呼ばれる庭が方丈の東にあります。  一休禅師 一休さんは、1394年(応永元年)正月元旦に、後小松天皇と、宮仕えしていた日野中納言の娘照子姫との間に生まれました。本来ならば、時の天皇の子として世継ぎの地位にあったのですが、帝が照子姫をあまりにかわいがるので、それをねたむ者に落とし入れられ、照子姫は一休の生まれる前に宮中を出されたのでした。そのため一休は、洛西嵯峨の民家で誕生しています。                      一休さんが6才の頃、その将来を僧侶にと願った母の考えにより、禅宗の臨済宗安国寺(京都)の像外鑑公和尚のもとに出家したのでした。8歳の時に有名な「このはし渡るべからず」や、将軍義満に屏風の虎の捕縛を命じられ「さぁ追い出して下さい」と告げ、ギャフンと言わせたトンチ話を残したとされている。応仁の乱で炎上した大徳寺復興の為に、1473年後土御門天皇天皇の勅命で第47代住職にされてしまいます。「さて、再建費用をどうしたものか」一休が向かったのは豪商が集まる堺。貿易が盛んで自由な空気の堺では、破戒僧一休の人気は絶大だったからです。「一休和尚に頼まれて、どうして断わることが出来ようか」。商人だけでなく、武士、茶人、庶民までが我れ先にと寄進してくれ、莫大な資金が集まったということで、5年後には大徳寺法堂が落成しました。一休は見事に周囲の期待に応えたということです。その時に塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建されました。 なんと一休80歳のときのことです。 また、一休は禅僧でありながら酒を呑み、女性を愛し、肉を食し、頭も剃らず、戒律なんかどこ吹く風。一貫して権威に反発し、弱者の側に立ち、民衆と共に生き、笑い、泣き、庶民と一緒になって貧困や飢餓にあえぎました。そして、贅沢に溺れる権力者や、人々から偶像視され得意になり地位を上げることしか眼中にない宗教者たちを痛罵したのです。一休は、戒律や形式に捉われない人間臭さから、庶民の間で生き仏と慕われました。【大徳寺境内にて】  ◇"建武の新制"ということで新たにスタートした後醍醐天皇ですが、武士たちの多くは不満を高め失望し、新たなるリーダーを求めました。その中で浮上したのが、足利尊氏です。その足利氏ですが、鎌倉時代は北条家には逆らわない方針を取り、足利義兼が北条政子の妹を妻とするなど、歴代当主は北条氏から妻を迎えているほど。尊氏自身、妻は北条一門の赤橋登子でした。しかし、その北条氏を裏切った足利尊氏は、鎌倉幕府滅亡後に参議、武蔵守と重用され、後醍醐天皇の名前(尊治親王)から「尊」の字をもらい、高氏から尊氏に改名することになるなど、かなり優遇されていました。実は、その尊氏は「次は私が武家の棟梁として、幕府を開くぞ」と意気込んでいました。一方、後醍醐天皇の皇子である護良親王(もりよし)も、「ここで足利尊氏を中心に幕府を開かせてしまっては、なんのために我々の手に政権を取り戻したのか解らないではないか。むしろ、私を中心に武士を集めたい」と考えます。彼は、なかなか武骨な人物で、鎌倉幕府を倒すときにも、楠木正成と共に赤坂城で戦ったり、近畿の武士たちを統合したり、全国へ密使を派遣して鎌倉幕府討伐を呼びかけるなど、実は幕府滅亡を成功させた縁の下の力持ちという人物でありました。そういうことで、幕府滅亡後は征夷大将軍に任命されていたほどです。彼は、少しずつ足利尊氏が全国の武士たちから支持されていくのを見て「親父のためにも、今のうちに足利尊氏は排除しなければならない」と準備を始めます。ところが、それに気がついた足利尊氏。後醍醐天皇に対し「まさかと思うけど、こんなに頑張っている私を、陛下は排除するおつもりですか?」後醍醐天皇「いや、私は知らないよ」と得意のシラを切ります。後醍醐天皇としては、ここで尊氏に反乱をされたら困ると考えたのでしょう。そこで足利尊氏は、当時、後醍醐天皇が彼女の言うことなら何でも訊くとさえ言われた阿野廉子(あのれんし)という女性を通じて「実は、密かに護良親王は帝位を狙っていますよ」とささやかせます。当然、「あの馬鹿息子!」と激怒した後醍醐天皇は、護良親王を逮捕し、なんと尊氏の弟である足利直義に預けて、鎌倉で幽閉させてしまいます。これから、足利尊氏と後醍醐天皇との探り合いが始まります。 《続く》 2014/06/19コメント(0)京都の歴史"京都五山巡り"も約一ヶ月ご無沙汰になってしまいましたが、京都の大徳寺に行ってきましたので、大徳寺を紹介しながら、鎌倉幕府滅亡から室町幕府が成立するまでの歴史を京都を中心に辿っていきます。 大徳寺も禅宗のお寺として非常に有名で見どころいっぱいの寺院ですが、京都五山にこの大徳寺は入っていません。幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が開始されると、五山も南禅寺と大徳寺を筆頭とする京都本位に改められました。足利尊氏が建武政権から離れて南北朝時代となると、尊氏や弟の足利直義などは禅宗を信仰したため、五山も足利将軍家が帰依していた夢窓疎石が中心となって京都の寺院から新たに制定されました。数回の選定変更があったようですが、室町時代の1386年には3代将軍の足利義満が相国寺を創建した後に、五山を京都五山と鎌倉五山に分割し、両五山の上に別格として南禅寺を置くという改革が行われて制定されたのが、現在いわれる京都五山と鎌倉五山ということです。今日では京都五山=京都の禅寺の格付と一般的に勘違いされやすいのですが、それは決して正しい解釈ではありません。京都五山はあくまで足利氏の政治、政略的な格付けであり、大徳寺は同様の理由から格を下げられ、後に五山制度から脱却しています。つまり、大徳寺は後醍醐天皇と関係が深かったために、足利将軍家から軽んじられ五山から除かれてしまったということなんです。1386年には、十刹の最下位に近い第9位となったため、大徳寺は足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとったということです。 そして、その後の大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄えていくことになります。 【総 門】  開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超(しゅうほう みょうちょう)で、大徳寺は1325年に正式に創立されています。 大徳寺は、京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び圧倒されるものがあります。大徳寺は多くの文化財を残し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院だといえます。 伽藍に入ると、勅使門・三門・仏殿・法堂がほぼ一直線に並んでいます。【勅使門】重要文化財 【三 門】重要文化財 東福寺や南禅寺と違い、三門の上に上がることはもちろん、近づくこともできませんでした。応仁の乱後、一休禅師が一階部分を寄進、のち千利休の援助により二階部分が設けられ金毛閣と名づけられました。 大徳寺は、様々なエピソードを色々なシーンで提供していますが、その中でもなんと言っても興味深いのは利休切腹の口実となった三門の話ですね。三門が完成すると大徳寺の住持であった古渓宗陳(こけいそうちん)が、利休に対する感謝の意を表するために利休の木造を造り、それを三門の上に祀りました。お茶好きの秀吉は,大徳寺で茶会があれば、門を潜ることになります。しかし、その上には、雪駄履きの利休がいることになります。「天下人」にここを通らせるつもりかとの難癖がつけられ、やがて切腹に追い込まれました。原因は当然他にあるのでしょうが、なかなかうまくできた話です。しかし、うまい話とばかり感心してはいられません。豊臣家は、その後家康に、方広寺の鐘の中に「国家安康」「君臣豊楽」の文字があると難癖をつけられ、滅亡に追い込まれました。自ら編み出した「言いがかりの手法」が,巡りめぐって還って来たわけですから、まさに因果応報とはこのことですね。【法堂(はっとう)】重要文化財  国宝の唐門は、その唐門をやり過ごし北に曲がり,しばらく進むと大徳寺社務所に着きますが,さらにその先にあります。この社務所の先には、国宝の方丈と玄関があり小堀遠州の庭を挟んで唐門があります。しかし、社務所の入り口には「拝観謝絶」とあるため、それ以上中には入れませんでした。見学するには、年に一度の10月第一日曜日を待たなければなりません。 ◇さて、足利尊氏や新田義貞の働きのより、鎌倉幕府滅亡を果たした天皇家は150年ぶりに政権を取り戻しました。後醍醐天皇は兵庫から京都に戻り、それまでの慣習とは異なり、関白や摂政そして院政も排除し、天皇自らが政治を行います。幕府滅亡の翌年、元号を「建武」(けんむ)と改めます。ここから、いわゆる建武の新政とよばれる後醍醐天皇の政治が始まります。しかし、そこで大きな問題が起こります。後醍醐天皇は「所領が誰のものかというのは、私が決めること」と、土地所有権の再確認を発表します。しかし、武士たちは、御成敗式目の第8条で「現在の持ち主が、20年間、その土地を事実上支配していたら、その土地の所有権は変更できない」という、まさに現在の民法にある時効取得と同様の考えで、安心して土地を所有していたわけですから、これにはビックリ。しかも再確認の結果、「あんたのものじゃないよ」なんてされることもあり、大変なことになります。さらに、後醍醐天皇に親しい人々がどんどん出世し、政権内部で対立が起こるなど、とにかく政治が思うように進まず、人々の恨みは募るばかり。当然、こんな有様ではうまくいくわけがなく、後醍醐天皇はそのたびに政策変更を迫られ、朝決まったことが夕方には変わっている・・・みたいな状況で、「いったいあんたの命令は何が正しいんだ」と大混乱状態に陥ってしまいます。《続く》 2014/06/18コメント(0)南禅寺の方丈に行くには本坊から入ります。 【本 坊】 東山の縁をすぐ背にして立つ庫裡は、腰をかがめて坂を登りきった人々にも何かホッとさせるものをもっています。 白壁を鮮やかに区切る黒々とした用材、すっきりとした屋根の稜線が美しく、一歩敷居をまたいで上を向くと、天井のない吹きぬけ造りに、縦横に組み上げられた梁組の力強さ、幾何学的美しさが禅宗建築の特色をあらわしています。 【方 丈】国 宝 南禅寺にある桃山時代建築の国宝建造物。大方丈と小方丈からなります。大方丈は1611年 京都御所にあった女院御所の御対面御殿を賜ったものと伝えられています。小方丈は「虎の間」と呼ばれる三室からなり、狩野探幽の作と伝えられる「水呑みの虎図」が有名です。もちろん写真はNGでした。 【方丈庭園】 南禅寺方丈庭園は小堀遠州作と伝えられ、江戸時代初期の代表的枯山水庭園です。南部から西部にかけて5本の定規線を配した薄青色の筋塀(築地塀)をめぐらし、東西に細長い地形に作庭されています。石組はこの筋塀に添って配置されており、大きな石組を方丈側から見て左奥に配し、前方と右手には白砂の広い空間を残しています。また巨大な石を横に寝かして配置する手法は、仏教的世界観などを表現した庭園から脱した構成で、俗に「虎の子渡し」の庭と呼ばれています。 【六道庭】 六道庭の六道の意味を聞いてみました。この「六道庭」は六道輪廻の戒めの庭です。六道輪廻とは、天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの世界を我々は生まれ変わり続けるという仏教の世界観のことです。一面の杉苔の中に配石された景石を眺めていると、煩悩に迷い、涅槃の境地に達することなく六道を輪廻するはかなさを想像できませんか。というご説明でした。いやぁ、深過ぎます・・・・・。 さて、隠岐の島に流された後醍醐天皇はどうなったでしょう。 護良親王は、河内の武士である楠木正成(くすのきまさしげ)ら、悪党と呼ばれる武装集団を味方につけ、ゲリラ戦法で鎌倉幕府軍に打撃を与えていきます。こうした反転攻勢を見た後醍醐天皇は、なんと隠岐から脱出します。そして兵庫に潜伏し、京と連絡を取り合います。これに呼応して、北条氏に不満を持っていた武士たちが次々と後醍醐天皇側に参加していきます。特に大きな力となったのが、鎌倉幕府の御家人で源氏の足利高氏と新田義貞の2大勢力です。足利高氏は幕府軍の大将の1人でしたが、篠村八幡宮(京都府亀岡市)にて「これより我が敵は鎌倉幕府である!」と挙兵。京都に攻め込み六波羅探題を滅ぼしました。一方の鎌倉幕府といえば、得宗で執権の北条高時は遊びまくっていました。田楽(でんがく)と呼ばれる農業に由来する演劇や、闘犬、それから酒宴三昧。政治の実権は、北条氏の御内人で内管領の、長崎高綱、高資の親子が握っている有様でした。ちなみに、長崎高綱は平頼綱の甥にあたります。彼らは、平頼綱とは異なり安達氏とも協力しながら幕府政治の強化を図りますが、やはり他の御家人たちは面白くなかったのでしょう。1333年、九州では鎌倉幕府の出先機関である鎮西探題が少弐貞経、大友貞宗、島津貞久ら、もと御家人たちによって滅ぼされます。そして同じ頃、ついに新田義貞が鎌倉攻略に向けて出陣します。1333年5月はじめ、新田義貞は上野国新田庄(現、群馬県太田市)から出陣します。相模の豪族である三浦義勝の協力を得ることに成功し、翌日未明に分倍(現、東京都府中市分梅町)の北条軍を急襲し、これを撃破します。勢いに乗った新田義貞軍は、南の海岸線沿いから軍勢を進め、鎌倉へ突入!こうして5月22日に鎌倉は陥落し、北条高時ら北条一族、長崎高綱らは東勝寺にて自害し、ここに鎌倉幕府は滅びました。このように鎌倉幕府が滅びたのは1333年ですが、決して1333年が室町幕府の始まりではありません。念のため。 《続く》 2014/05/21コメント(0)鎌倉時代にできた禅宗の寺院の一つに“南禅寺”があります。南禅寺はあまりにも有名で、知らない人はいないと思いますが、いつ行っても大勢の観光客で賑わっています。1291年、亀山法皇が離宮を禅寺にし無関普門禅師(大明国師)を開山に迎えて始まりました。京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最高位の格式を与えられています。正式には、瑞龍山太平興国南禅禅寺(ずいりゅうさんたいへいこうこくなんぜんぜんじ)といいます。 【三 門】江戸時代建築の重要文化財建造物 1628年、藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した家臣の菩提を弔うため寄進したと伝えられています。石川五右衛門が歌舞伎で「絶景かな」と言った眺めですが、実際には石川五右衛門がいた時代には三門はまだ再建されていなかったんですね。三門の前に建つ石燈篭も高さ6mを誇り、日本一大きいことで知られています。  【法 堂(はっとう)】 三門を入り正面に建っている伽藍が法堂で、豊臣秀頼の寄進した法堂は明治28年に焼失し、現在のものは明治42年に再建されたものです。 【大玄関】 本坊の左手には唐破風の大玄関があります。この大玄関は特別な行事の時にのみ使用されます。大玄関左手には書院が配され、方丈へと続いています。大玄関前の敷石は、廃線になった旧京都市電の敷石を再利用したもので、これは伏見線の敷石です。経年変化で年経た味わいが生まれ、苔が美しく育ってきています。  1324年から鎌倉幕府討幕の動きが出てきます。後醍醐天皇は、吉田定房、北畠親房、日野資朝などの人材を確保すると、院政を行わず自ら政治を行い、鎌倉幕府の転覆を計画します。第1回目が1324年で、日野資朝、蔵人頭の日野俊基などと挙兵の日程まで決めていましたが、何者かが幕府に密告。六波羅探題の軍勢によって後醍醐天皇に味方する武士は処刑され、日野資朝は佐渡へ流罪となり、のちに斬首。後醍醐天皇は「まろは何も知らぬでおじゃる」と貫き通し、このときは無罪放免となりました。これを、正中の変といいます。御醍醐天皇はこんなもんでは諦めません。第2回目が1331年ですが、またまた挙兵前に計画が発覚。日野俊基らが逮捕されますが後醍醐天皇はまたもや「知らぬ、存ぜぬ」を貫き、幕府からの追及を逃れます。しかし、今度ばかりは意地でも幕府を倒すつもりでした。突如として笠置山(かさぎやま 京都府笠置町)に立てこもり、幕府軍と戦います。しかし敗北し、さすがに今度ばかりは「知らぬ」とは言えず、山陰の隠岐へ流されました。これを、元弘の変といいます。しかし、この元弘の変はこれで終了ではありませんでした。後醍醐天皇の息子である護良(もりよし)親王が各地で倒幕するよう、各勢力に令旨を出して賛同者を募ります。これが、不満を持っていた鎌倉幕府の御家人に、大きなインパクトを与えることになります。御家人にとって、護良親王の令旨は、幕府を倒す正当な理由つまり朝敵を倒すための官軍としての錦の御旗を手に入れたことになったわけです。《続く》 2014/05/20コメント(0)京都五山の一つに"万寿寺"があります。東福寺から東福寺駅に行く途中に立ち寄りました。万寿寺は東福寺の北側にあり、現在は臨済宗東福寺の塔頭(たっちゅう)の一つになっています。もともとは、1097年白河上皇が皇女の追善のために内裏を仏寺「六条御堂(みどう)」にしたのが始りです。鎌倉時代の1257年-1259年間に天台浄土教から臨済宗寺院となり、寺号も万寿禅寺と改められました。  【鐘 楼】重要文化財  この鐘楼は室町時代の建築で境内入口にあります。上層に鐘を吊り、下層は門を兼ねています。元は三聖寺の建物で、現在は東福寺の所有となっており、重要文化財としての指定名称は「東福寺鐘楼」である。  1358年には京都五山の五位になったのですが、1434年の火災以後寺勢が衰退し、1591年に現在の東福寺北側に移転しました。1881(明治14)年に東福寺の仏殿が焼失した際、万寿寺にあった釈迦三尊像を東福寺本堂に移して新しい本尊としました。その釈迦三尊像はもともと1873(明治6)年に万寿寺に合併された三聖寺に安置されていもたのです。東福寺の釈迦三尊像はなんとも数奇な運命をたどった?ということですね。 一般公開されていないので、鐘楼門から境内の様子を1枚だけ撮らせていただきました。   鎌倉時代も元寇の二つの役の後、御家人をはじめとする民衆の幕府に対する不満が高まる中、「悪党」と呼ばれる反社会的武装集団が横行するようになります。悪党というのは、武士に限らず漁師や農民、商工業者、馬借など、様々な身分の人々から形成される、反既存権力の集団で、これまでに無いタイプの集団。後醍醐天皇は「彼らの武力は利用できる」と期待していたのです。有名な人物では河内の武士である楠木正成(くすのきまさしげ)がいます。決して、悪巧みを考える詐欺集団じゃないですよ、念のため。そのような幕府に対する不満を抱いている悪党らの御家人や民衆を味方につけ、幕府転覆を図ろうとしたのが後醍醐天皇でした。後醍醐天皇は「鎌倉幕府と天皇のあり方」について、当時日本に伝わってきた朱子学の考え方である大義名分論は重要、すなわち「臣下として守るべき道義や節度、出処進退のあり方」に基づき「倒すべし!」との根拠付けにしています。幕府は本来、私の臣下であるはず。しかし、その道義も節度も違反しているぞ!というわけですね。 この後醍醐天皇はじつに異色の天皇で、本来は天皇の名前は死後に決められるものを、「私は醍醐天皇や村上天皇の頃の、天皇自らが政治をする時代に戻したい」と熱望し、自分で「後醍醐天皇」を名乗りました。尊敬する醍醐天皇の後継者を自称したわけですね。後醍醐天皇は「幕府は、私の指揮下にあるべきだ。従わないなら滅ぼすまで!!」というように、血気盛んな人物だったようですね。 《続く》2014/05/12コメント(0)いつ行っても観光客の多い東福寺ですが、この日もゴールデンウイークの真っただ中ということもあり大変賑わっていました。  【本堂(仏殿兼法堂)】 現在の本堂は、明治14年(1881年)に仏殿と法堂が焼けた後、大正6年(1917年)から再建工事にかかり、昭和9年(1934年)に完成したものです。天井の竜の絵は堂本印象筆で、本尊釈迦三尊像は明治14年の火災後に万寿寺から移されたもので、これは鎌倉時代のものです。 【方 丈】  方丈は明治23年(1890年)の再建です。庭園は昭和13年(1938年)に作庭されたもので、方丈を囲んで四方に配され、八相の庭と命名されています。  【禅 堂】重要文化財 東福寺禅堂は、1347年に再建された豪壮な姿に往時の隆盛がしのばれる単層・裳階(もこし)付切妻造の建物で、中世期より現存する最大最古の禅堂です。     さて、鎌倉時代後半の天皇家はというと、跡目相続をめぐっての争いが始まっていました。88代天皇の後嵯峨天皇の子供である後深草天皇と、亀山天皇の兄弟が、それぞれが自分の子孫に皇位と、皇室の荘園を継承させようとしてバトルを繰り広げていました。結局、両陣営から「うちこそ正統だ」との主張を受けることになった鎌倉幕府は「ならば、お互いの子孫から順番に天皇を即位させるべし」と決定します。すなわち、両統迭立(りょうとうていりつ)といわれる、持明院統(後深草系)と大覚寺統(亀山系)の双方から天皇を出しあうことが決定されました。その結果、大覚寺統の後宇多天皇の次は、持明院統の熙仁親王が伏見天皇として即位しました。ところが、それでも両者の不満は納まらず、鎌倉幕府が調停を進めた結果、1317年に文保の和約が成立。これに伴い、持明院統の花園天皇に代わり、大覚寺統から後醍醐天皇が即位します。ところが、その後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒に向けて動き出すことになります。鎌倉幕府としてはせっかく仲裁してあげたのに・・・といったところでしょう。のちに、この後醍醐天皇が南朝、持明院統から即位した光厳天皇が北朝につながっていきます。 天皇家に御家人そして仏教僧や民衆まで、鎌倉幕府を取り巻く状況は一触即発といった感じになってきました。 《続く》 2014/05/11コメント(0)5月4日に京都に行ってウォーキングしてきました。今回のウォキングのテーマは『京都五山巡り』でした。 『京都五山』とは何でしょう。まず、鎌倉時代に始まった鎌倉五山の話から入ります。中国・南宋の五山十刹の制にならって、鎌倉時代に北条氏が各禅刹の寺格を決め、官が任命した住寺を順次上位の寺へと昇任させる五山の制度を取り入れ、鎌倉にある主な五つの禅寺を五山としました。これが鎌倉五山といわれます。しかし武家中心の五山であったため、明確には制度化されませんでした。そうした中、鎌倉幕府が倒れ室町時代になると、京都を中心とした五山の順位が定められました。それを定めたのは足利義満で、義満は相国寺を創建したのち1386年に、鎌倉五山と京都五山の分離を行い、南禅寺は別格で「五山之上」とし、鎌倉・京都にあってそれぞれ最高位に位置する禅宗寺院の五大寺を 第一.建長寺(鎌倉)・天龍寺(京都)第二.円覚寺(鎌倉)・相国寺(京都)第三.寿福寺(鎌倉)・建仁寺(京都)第四.浄智寺(鎌倉)・東福寺(京都)第五.浄妙寺(鎌倉)・万寿寺(京都)というように、対等に鎌倉と京都の禅刹が据えられました。現在知られている鎌倉五山、京都五山ができたということですね。 京都五山の中では、建仁寺が1205年に禅宗の京都の拠点として完成しました。その後、京都では禅寺が相次いで開かれていくことになります。鎌倉時代に京都で開かれた禅寺の一つが“東福寺”です。東福寺は京都駅の東南に位置し、京都でも一位二位を争う紅葉の名所でもあります。 1236年九条道家(摂政)は、この地に高さ5丈(約15メートル)の釈迦像を安置する大寺院を建立することを発願、寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取って「東福寺」と名づけました。5丈の釈迦像を安置する仏殿の建設工事は1239年から始めて、完成したのは1255年で、16年かかって完成したことになります。 【三 門】国宝  「東福の伽藍面(がらんづら)」とまでいわれ壮観を極めたのが、度重なる兵火と1881年(明治14)の失火で仏殿、法堂、庫裏などを焼失、以後、逐次再建してきました。禅宗伽藍を代表する室町最古の三門(国宝)をはじめ、浴室、東司(便所)禅堂(いずれも重文)など室町時代の禅僧の生活を知る上で貴重な建築が残っています。 【偃月橋(えんげつきょう)】重要文化財  本坊より塔頭、龍吟・即宗両院に至る三ノ橋渓谷に架かる単層切妻造・桟瓦葺きの木造橋廊で、1603年に再建、1967年に重要文化財に指定され、日本百名橋にも選ばれています。 偃月橋からは“通天橋”が見えます。ここからの紅葉が最高なんです。 仏殿から常楽庵に至る渓谷・洗玉澗に架けられた橋廊で、1380年に谷を渡る労苦から僧を救うため架けたと伝えられています。昭和34年(1959年)台風で崩壊したが2年後に再建、その際橋脚部分は鉄筋コンクリートとなりました。     鎌倉時代も後半に入ると、社会全体に不穏な空気が高まってきます。 そのきっかけとなったのは、1274(文永11)年と1281(弘安4)年の元寇の役、いわゆる中国の元軍の二度に渡る日本への襲来です。もっとも、元の襲撃は失敗に終わりました。その失敗の原因は、のちに日本で「神風(カミカゼ)」と騒がれる暴風雨(台風?)ですが、日本側の記録にはこれといったものが無いそうです。もしかすると、負けて帰ってきた言い訳をするために作った創作話とか、そもそも文永の役はただの「おどし」で、本気で元は戦争をするつもりは無く、また予想外に抵抗を受けたこともあり、引き上げたとも考えられています。元軍の強さは訓練された騎馬軍団にありましたが、フビライの軍勢は南宋や高麗など、フビライに敗北して「渋々」したがっている兵士が大半で、戦意もあまりありません。おまけに、船を使った戦いは未経験であり、しかも大急ぎで作らせた船で、激しい風雨に非常に弱い。このあたりが、元敗北の要因のようです。 こうして元の襲来を通じて、ますます権力基盤を固める北条氏。しかし一般の御家人や武士たちは、借上(かりあげ)と呼ばれる高利貸し業者から借金をするなどして、元襲来で自腹を切って参戦したにもかかわらず、新たな領土を獲得したわけではないので恩賞が少なく、生活が困窮していき、次第に不満が高まっていきました。中には、あとで恩賞がもらえるから・・・と、先に借金までして参加した者も多く、恩賞の少なさに、その借金を返せなかったということです。それに対して、北条氏は執権政治にみられた合議制を廃止し、権力を北条得宋家に集中し、専制支配を強化して難局を切り抜けようとしましたが、次第に人心が北条氏から離れていくことになります。 《続く》 2014/05/08コメント(0)東本願寺まで来るとJR京都駅や京都タワーがすぐそこに見えます。この烏丸通りの西側に"東本願寺"があります。   何故、本願寺は西本願寺と東本願寺とに分裂することになったのでしょう。1580年三月に織田信長と本願寺教主顕如との講和が成立しましたが、結局はこの織田信長との長い争いが、本願寺の分裂を招くことになったということです。講和のあと、顕如は大坂の石山御坊を信長に明け渡し、四月には紀伊国鷺森に移りました。ところが、顕如の長男の教如はなお抵抗し、強硬派や大坂の町人とともに争いますが、その教如も信長の猛攻に耐えきれず、同年八月に信長と和解し、大坂を去ることになります。このときの顕如と教如父子の意見の対立が、本願寺の分裂のはじまりとなります。顕如の次男准如は父のあとをついで教主となり、秀吉に京都の地を与えられ、現在の西本願寺を営むことになります。しかし、教如はこのような動きに反発します。教如に従う有力な信者も多かったので独自に活動していたのですが、これをみた徳川幕府が1602年京都に寺地を与えました。この寺地が現在の東本願寺がある場所になるわけですが、これで教如は幕府の後押しを得、自派の信者を西本願寺の支配から分離させます。そして、教如は教主を名乗り、群馬県前橋市の妙案堂に伝えられた親鸞自作の親鸞像をお迎えし、寺院の建設にとりかかりました。さらに1641年東本願寺は東方への寺地の拡大を許され、西本願寺とほぼ同じ広さの境内を持つようになったということです。 東本願寺は現在、本尊である阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂と、高さ28メートルを誇り京都三大門に数えられる御影堂門の修復が進められています。そのため、今回撮影できたのは御影堂と阿弥陀堂門だけになりました。 ちなみに、東本願寺の正門「御影堂(ごえいどう)門」(登録有形文化財)は、2014年の修理工事に伴う調査で、門の高さが約26.9メートルと、伝統的な寺院の門としては国内で最も高いことが確認されています。有名な奈良・東大寺の南大門(国宝、約25.5メートル)より高かったということです。ちなみに横幅は南大門の方が8メートル以上大きいということです。 【阿弥陀堂門】 阿弥陀堂門は、切妻造・檜皮葺きの四脚門で正背面に唐破風を設けています。境内で京都駅に一番近い門になります。江戸時代中頃に、「唐門」の名称で建てられましたが、現在の阿弥陀堂門は、御影堂門と同じく明治44年の再建されたものです。 【御影堂(ごえいどう)】  御影堂「内陣本間」の中央に須弥壇上を設け、その上に「御厨子」を置き「宗祖親鸞の坐像」を安置しています。御影堂は、屋根は瓦葺きの重層入母屋造で、外観が二重屋根であるため二層建築に見えますが、単層建築です。現在の建物は明治28年(1895年)に完成したもので、建築規模は、間口76m・奥行き58mであり、建築面積において世界最大の木造建築物ということです。 親鸞は、もともと公家・日野有範(ひのありのり)の子で、源平の合戦で一家離散し、のちの天台宗の官長となる慈円について出家しました。この時親鸞9歳の時でした。その後1201年自分の限界を感じ、29歳の時に比叡山を下ります。そして、京都の六角堂に籠り百日間祈願に入って95日目に、夢に聖徳太子の化身・観音菩薩が現れ、法然のところに行きなさいといわれたといいます。親鸞はすぐに法然の所に行き、他力本願の教えを聞き、深く心を動かされ法然の弟子となりました。その後、法然は四国に流されましたが、親鸞は越後国(新潟県)に流され、朝廷から僧籍を剥奪されてしまいますが、4年後罪を解かれ、親鸞は常陸国(茨城県)を中心に浄土の教えを説き広め、親鸞の思想をまとめた「教行信証」を書き、新たに浄土真宗を起こしました。1225年下野国(栃木県)高田に専修寺を開き、1235年に京都に戻り、1262年90歳の生涯を閉じました。法然の浄土宗「専修念仏」の教えは、「自分の力で仏になるのではなく、阿弥陀仏の力で仏にさせていただく」という他力本願で、親鸞の浄土真宗「教行信証」の教えは、「本願するのでは無く、阿弥陀仏にすべてをお任せすれば良い。阿弥陀信仰を持った瞬間から人は救われる」という絶対他力だということです。そもそも本願寺の“本願”とはどういう意味なんでしょう。阿弥陀仏は、苦より離れ切れない人間を見て、何とか絶対助けてやりたいという大慈悲心を起こされました。そして、阿弥陀仏が誓(約束)われたのが「どんな人も我を信じよ、必ず絶対の幸福に救う。もし救うことができなければ命を捨てる」とまで断言されているお約束です。阿弥陀様が命を捨てるとまで誓っているのだから、どんな人もこの阿弥陀の本願を信じれば、お約束通りに絶対の幸福に救われ、死ねば阿弥陀の浄土へ往生することができる。《親鸞聖人『正信偈』》つまり、本願とは阿弥陀仏の誓い、お約束ということでしょうか。   東本願寺から阪急烏丸駅に向って歩いていると、偶然通った細い道で古い家を見かけました。あの有名な与謝野蕪村宅跡ということです。 詳しい住所は下京区仏光寺通烏丸西入南側で、そこには「与謝蕪村宅跡(終焉の地)」の石碑がありました。 与謝蕪村(1716~83年)は摂津出身の俳人で、江戸で俳句を学んだ後に上洛し、その後住居を転々としましたが、この地にあった路地の南に居を構えて絵画や俳句の創作活動を行い,ここで没したということです。「平安人物志」明和5(1768)年版には、居所を「四条烏丸東へ入町」と記載してあり、安永4(1775)年版には「仏光寺烏丸西へ入町」と記載してあるので、この間にこの地に住居を移したと考えらるということです。この石標は蕪村の宅跡を示すものだそうです。これも歩いていればこその出会いですね。 これで、「京都歴史ウォーキング鎌倉時代」の京都を巡る旅は終わりです。次の京都歴史ウォーキングは南北朝時代から室町時代にかけての史跡を巡る予定です。 2014/04/23コメント(0)本願寺は、現在の場所に落ち着くまでには、いろいろと戦乱の歴史の中で戦いまた翻弄されることになります。  本願寺の名称はもともとは大谷廟堂の別名だったのですが、室町時代に入ったころから、本願寺の寺号が使われるようになります。東山吉水の本願寺は応仁の乱の直前の1465年に延暦寺の襲撃により破壊されます。このあと本願寺は山科に移っています。そして、本願寺教主“蓮如”の北陸地方での意欲的な活動により、浄土真宗は一大勢力を形成することとなり、そしてその信者がしばしば諸大名と武力で衝突するまでになります。これがいわゆる一向一揆ですが、こういうなかで、本願寺は山科から大坂に移ります。これが、今NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」の中に出てきている、織田信長との11年にわたる争いを繰り広げている“石山本願寺”ということです。現在の大阪城や法円坂付近にあり、その跡地に秀吉が大阪城を築いたということです。その後、宗主“顕如”が信長と講和したのち、本願寺は紀伊、和泉、大坂天満を転々とすることとなります。そして、1591年になってようやく秀吉の招きを受ける形で、現在の西本願寺のある地を与えられ、なんと126年ぶりに京都に戻ってきました。 ということで、西本願寺には秀吉とのかかわりを感じるものがいろいろあるというのも納得できるいうことですね。  西本願寺の南の方には、他にも優れた建造物が並んでいます。 【唐 門】国 宝 (別名日暮門) 西本願寺の南側、北小路通に面した位置にあります。以前は御影堂の前にあったものを1618年に北小路通の現在地に移建したものです。絢爛豪華の語を再現した門と言えます。まず目に飛び込むのは内側を向いた2頭の麒麟、といっても首の長い現在の「きりん」ではありません。獅子や龍、孔雀など桃山時代の人達が豪華を連想したであろう動物達の彫刻が原色で装飾されています。飽きずに一日中でも眺めていられるということで「日暮門」と呼ばれています。外側、内側に唐破風の屋根を付けた四脚門で檜皮葺の入母屋造の桃山時代の建造物です。京都の国宝三唐門の一つで秀吉の伏見城から移されました。   【書 院】国 宝 黒書院は粗木を用いた私的な室で、歴代ご門主が寺務をとられた所で、白書院は対面所の北裏にある賓客を迎える正式の書院となっています。対面所の西には、国宝の菊の間や雁の間をはじめすばらしい文化財が並んでいるそうです。いつでも見ることができるようなものではないみたいです。それらの文化財のことが書かれていましたので紹介します。『対面所の横に控えるのは雀の間。こちらはお給仕をするための控え室。襖には沢山の雀が一面に描かれています。当初68羽描かれていたそうですが、あまりに上手く描かれているため、2羽は飛んで行ったとか。』『雀の間の格天井(ごうてんじょう)がすばらしい!なんと、36面の天井に四季折々の違う花々が、一面ごとに描かれているのです。それは、10日間ごとの花カレンダー。カレンダー天井なのです!カレンダーといえば数字と思いがちですが、それはわかりやすく数字にしているのであって、時の流れを具体的に表現すると、盛りの花の移り変わりのように、様々な表情を見せるものなのですね。』『その隣の雁の間の格天井は、一面にテッセンが描かれています。天井の格子を使って、絡みつくように描かれているのは見事。襖には雁が、秋の空や水辺を本当に飛んでいるかのように、風情たっぷりに描かれています。』どうですか、想像できましたか?  【飛雲閣】国 宝 かろうじて塀の外から撮ることができました。金閣、銀閣とともに京都三名閣の一つです。秀吉が建てた聚楽第(じゅらくだい・てい)の一部で、三層からなる楼閣建築ですが、第一層が入母屋と唐破風を配しているように左右非対照になっており、不規則ながら巧みに調和されています。それにしても、秀吉は贅を尽くした建築物を建てたものです。 【鐘 楼】 鐘楼は建築物として文化財には指定、梵鐘は美術工芸品として重要文化財にリストアップされていますが、この梵鐘は二代目のようです。 【堀 川】 この堀川は、西本願寺の東でわずかに地上に現れるほかは堀川通の地下を流れ、近鉄京都線上鳥羽口駅の西で開渠となり、すぐに鴨川と合流しています。  【太鼓楼】 本願寺の東北角にある重層の楼閣で、内部に今も残る大きな太鼓は、江戸時代には周囲に時刻を告げる合図となっていました。この西本願寺太鼓楼は、幕末に京都で活動した、あの新撰組の足跡が残された場所でもあります。新選組は、壬生浪士組として発足し、その頃の隊員数は24名だったのですが、1864年の池田屋騒動以降、隊員数が増加し最盛時には200名を超えていたといいます。そのため、1865年壬生の屯所が手狭となった新選組は、本願寺に移り、境内に「新選組本陣」の看板を掲げ、北集会所と太鼓楼を使用していました。次は、東本願寺に向かいます。  2014/04/22コメント(0)3月29日以来の京都の歴史になりますが、その時は知恩院、建仁寺に訪れた後さらに本願寺にまで足を延ばしました。建仁寺から六波羅を抜け、弁慶と牛若丸との二人の決闘で有名な五条の大橋を渡ります。弁慶の長刀(なぎなた)をひらりとかわす牛若丸の五条の橋での決闘を表わした可愛らしい像があります。      京都を中心に活躍した 鎌倉新仏教の開祖三人の中で、法然(知恩院)、栄西(建仁寺)についてはすでに書きましたが、今日はもう一人浄土真宗の開祖親鸞(本願寺)について紹介します。親鸞は比叡山で修業したのち、法然(浄土宗)に従って専修念仏の信仰に入りましたが、1207年旧仏教の弾圧により越後に流されました。しかし、そのことが親鸞の地方への布教に対する関心を高めることとなります。そして赦免されたあとも京都に帰らず関東を中心に活動しました。このような動きの中で、法然の浄土宗と異なる、親鸞の浄土真宗の教団ができていきました。 【総 門】   親鸞の娘の覚信尼が、親鸞没後の1272年に東山吉水に親鸞像を安置して大谷廟堂をおこしたのが本願寺の起源となります。【本堂門】   【阿弥陀堂(本堂)】重要文化財   現在の西本願寺には江戸時代はじめのすぐれた建物や庭園が多く残っています。これは主に、本願寺の末寺から上納された資金を用いてつくられたもので、権力者の助けを受けず、教団独自の財源で寺づくりができた点に、浄土真宗教団の底力を感じます。現在でも、浄土真宗は日本の仏教の諸宗派の中で、もっとも多くの檀家を持っていることの基盤は、すでにこの時代からできていたのですね。  【御影堂(大師堂)と表門(御影堂門)】   【御影堂(大師堂)】重要文化財  【境 内】 国の史跡 境内は広く、そこには大銀杏があり、梅の花が咲いていました。    現在の場所に移ったのは天正19年(1591年)ですが、今や世界遺産の西本願寺、境内に一歩入っただけで御影堂(大師堂)、阿弥陀堂(本堂)の威容に圧倒されますが、鳩が遊ぶ広々とした境内は市民の憩いの場にもなっていました。 2014/04/21コメント(0)次は、本坊から入り方丈に向かいます。 建仁寺の方丈(ほうじょう)は、室町時代の建物(禅宗方丈建築)で、1599年に安国寺恵瓊(あんこくじ えけい、毛利氏の外交僧)が、安芸(広島県)の安国寺(現 不動院(広島市))から建仁寺に移築した建物です。国の重要文化財に指定されています。方丈内部には東福門院寄進の本尊 十一面観音菩薩像が安置され、橋本関雪による「生生流転」(しょうじょうるてん)の障壁画があります。前庭は枯山水様式の石庭「大雄苑(だいおうえん)」で、後庭は「潮音庭」と呼ばれています。【方 丈】重要文化財 【雲竜図】 これもコピーですが、海北友松作の障壁画「雲龍図」が本坊の礼の間にあります。海北友松は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した絵師で、父が滅びた浅井氏の家臣であったため武家としての海北家の再興を目指しましたが、豊臣秀吉に認めれれたことから画業に専念し、海北派の始祖となった方です。【潮音庭(ちょうおんてい)】 建仁寺本坊の中庭にある潮音庭は、中央に配した三尊石が四方のどこから見ても正面に見えるように計算し尽くされた枯山水庭園で、秋には周りに植えられた紅葉が深紅に染まる穴場の紅葉どころです。     【方丈庭園・大雄苑(だいおうえん)】 白砂に緑苔と巨石を配した枯山水庭園です。七代目小川治兵衛の作庭で、植治の作品として枯山水は非常に珍しい作庭です。  正面に見えるのは法堂です。 【風神雷神屏風図】国宝 建仁寺には、尾形光琳と並ぶ琳派の重鎮である俵屋宗達作の風神雷神図があることで有名です。キャノンが作成した細密コピーが展示されています。「特別展 栄西と建仁寺」が3月25日、東京・上野の東京国立博物館で始まりました。5年ぶりに国宝の俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」が公開されています。 風神雷神屏風図を西陣織で再現したものが展示していました。 建仁寺完成のあと、建仁寺は上級武士層の援助を受け栄えました。そして、鎌倉時代末期に中国から渡来した学僧"蘭渓道隆"が禅宗専一の寺院に改めました。このとき臨済宗がはじめて天台宗から自立したことになります。 室町時代に入ると、建仁寺は室町幕府によって、京都五山の第三位の扱いを受けるようになり、これが南北朝時代の武家による禅宗文化の開花につながっていきます。建仁寺は、今日の京都では清水寺や八坂神社のように観光客が押し寄せているようなところではなく、禅寺の一つにすぎませんが、栄西が臨済宗を開いたおかげで、大徳寺や龍安寺など多くの有名な寺院がつくられることになります。 建仁寺ではは坐禅と法話の会、「千光会」が毎月第二日曜日午前8時より行っています。志のある方であればどなたでも参加できるそうです。参加費は無料で、特に予約は必要ありません。午前8時より坐禅を20分2回行います。その後、お経を唱和した後に茶礼を行い、最後に管長猊下の御法話があります。ぜひ、建仁寺での坐禅を体験してみてください。  2014/03/29コメント(2)知恩院から円山公園、八坂神社を通り、祇園花見小路に入ります。メイン通りは右の写真のように多くの観光客で賑わっていますが、横の通りに入ると左の写真のように急に閑散としてきます。   人ごみを避けながら、目的地の建仁寺に向かいます。祇園の南側すぐのところに建仁寺はあるのですが、広い境内の一番南側から参拝させていただきます。 建仁寺 日本に臨済宗を伝えた栄西がおこした、我が国最初の禅寺です。栄西は法然が侍の家に生まれたのに対し、備中の神職の家に生まれました。十四歳で比叡山に登り、早くから天台密教の奥義をきわめ俊才といわれていました。しかし、栄西は密教の奥義を深めるにつれて、僧兵を操って権力者と結び朝廷の政争に関与する比叡山のあり方に疑問を持つようになりました。本来、仏教は出世の手段などではなく、人間のこころを救うためのものではあるまいか。こういった問の答えを見つけるため南宋に赴き、そこで禅の教えにふれ、臨済宗の奥義を身につけます。これによって、栄西は質素な暮らしをしながら、禅で心を鍛えることによって仏の道に近づこうとする禅宗を創始することになります。 栄西が禅という新たな教えを広めようとすると、比叡山の旧仏教の中にはそれに反発する保守的な者がいることを栄西はよくわかっていたので、禅は天台の鎮護国家論を盛り立てるものだと位置付け、旧仏教との協調をはかったにもかかわらず、比叡山は禅宗に反発します。そこで栄西は京都を離れ、九州や鎌倉で布教活動を行いました。そして、1202年になって、ようやく鎌倉幕府二代将軍源頼家の援助で六波羅密寺の北、祇園の南端の現在の土地を与えられました。そして、1205年に禅宗の京都の拠点として建仁寺が完成しました。  【勅使門】重要文化財 勅使門はもとは六波羅探題のもので、ここには鎌倉時代滅亡時、天皇方の六波羅攻めのときの矢傷が残っています。このことから、「矢の根門」「矢立門」とよばれます。 【禅居庵の庭園】 【三 門】三門(さんもん)は、1923年(大正12年)に静岡県浜名郡雄踏町(現 浜松市)の安寧寺から移築されたものです、江戸時代末期に建築された入母屋造り・本瓦葺きの楼門です。「御所を望む楼閣」という意味で「望闕楼」と名付けられています。 【法 堂(はっとう)】 法堂(はっとう)は、仏殿(本尊を安置する堂)と法堂(講堂にあたる)を兼ねるもので、1765年(明和2年)に建立されました。五間四間、一重、裳階付きの禅宗様仏殿建築です。本尊は釈迦如来像。 法堂の天井には、2002年創建800年を記念して小泉淳作画伯による双龍が描かれました。 【双 龍】 天上の双龍はとにかく迫力満点です。一歩足を踏み入れた途端、圧倒されます。京都には、多くの臨済宗の寺院の法堂の天井に龍が描かれています。ざっとご紹介してみても、狩野探幽作の妙心寺法堂の「八方にらみの龍」、今尾景年作の南禅寺法堂の雲龍図、堂本印象作の東福寺法堂の龍図、狩野光信作の鳴き龍で有名な相国寺の蟠龍図、加山又造作の天龍寺法堂の雲龍図など、たくさんの龍の画で溢れています。これらはすべて写真撮影禁止ですが、唯一写真撮影ができる龍の天井画が、建仁寺の双龍です。   建仁寺は、旧仏教からの圧力を避けるため、幕府の勢力圏である六波羅探題があるすぐそばに建てられたということです。 2014/03/28コメント(2)最初に訪れたのは、浄土宗総本山の知恩院です。 知恩院は法然が営んだ吉水禅房にはじまる浄土宗の総本山です。法然は美作国の武士の子に生まれましたが、九歳の時に父が殺され、死に際に自分の敵討ちをするより仏道に入って多くの人を救えと遺言されました。これに従って法然は十五歳のときに比叡山で出家しました。法然の名前は「法然坊源空」といい、幼名を「勢至丸」 といいます。源空は比叡山で「知恵第一の法然房」とよばれるようになりました。しかし、四十三歳のとき手間のかかる仏事に頼らなくても、誰でも阿弥陀仏に救ってもらうことができると確信し、浄土宗をひらきました。そして、比叡山をおりて、民衆を相手に幅広い布教をはじめました。このとき、法然は「南無阿弥陀仏と称えさえすれば極楽にいける」と説きました。これが専修念仏ということです。 【華頂山知恩教院大谷寺】 最初に参拝者を迎えてくれるのはりっぱな三門です。知恩院三門は、元和7年(1621)、徳川二代将軍秀忠公の命を受け建立されました。平成14年には国宝に指定されました。構造は入母屋造本瓦葺(いりもやづくりほんがわらぶき)で、高さ24メートル、横幅50メートル、屋根瓦約7万枚。その構造・規模において、わが国現存の木造建築として最大級の二重門で、二回の真ん中に掲げられている「華頂山」の額は、大きさが畳二畳以上にもなります。 【三 門】国宝  一般には寺院の門を称して「山門」と書くのに対し、知恩院の門は、「三門」と書きます。急な階段を上り切ると、目の前に京都盆地を見渡す絶景が広がります。【男 坂】 通りに面した巨大な国宝三門を潜ると広くてしかも一段一段が高い石造りの階段が始まります。その険しさからか,男坂と呼ばれています。 現在修理中の御影堂の右手奥にある"勢至堂"に向かいます。法然上人像に手を合わせ石段を登ります。 勢至堂(せいしどう)の地は、法然上人がご終焉を迎えられるまでお念仏のみの教えを自ら広められた大谷の禅房の故地であり、知恩院発祥の地でもあります。堂内正面に掲げられている額「知恩教院」は後奈良天皇の宸翰であり、知恩院の名の起源がここにあります。【勢至堂】重要文化財  現在の勢至堂は享禄3年(1530)に再建されたもので、七間四面単層入母屋造本瓦葺、桁行21メートル、梁行20メートルの現存する知恩院最古の建造物です。 専修念仏は急速に広がるのですが、これに怒った旧仏教は朝廷にはたらきかけて1207年に法然を四国に流罪にしました。四年後に許されて京に戻り翌年1212年に亡くなりました。そのとき法然の遺骸は、大谷の禅房(現在の勢至堂付近)の東方に建てられた廟堂に葬られました。 【御 廟】 旧仏教は、浄土宗が多くの信者を持っている点を大いに恐れました。そして、法然の死を好機ととらえ、力ずくで専修念仏の一派を押しつぶそうとしました。そのため、法然の弟子たちは、大谷にあった法然の遺骸をいったん荼毘に付し門弟たちに分与しました。そして、浄土宗の教団が安定したのちの1234年になって、大谷に廟堂を復興し、仏殿、御影堂などを建てて大谷寺と名付けました。これが知恩院の起こりです。    奥に見えるのが御廟です。法然上人のご遺骨をご奉安する廟堂は、方三間の宝形造本瓦葺で、周囲には唐門のある玉垣がめぐらされています。知恩院境内の中でも、ひときわ静穏な空気に包まれた、お念仏発祥の地にふさわしい聖地です。 総本山知恩院では平成23年に法然上人800年大遠忌を迎えるのにあたり、この国宝・御影堂の半解体をともなう大修理をおこなっています。御影堂(みえいどう)は、その雄大なたたずまいから大殿(だいでん)とも呼ばれ、浄土宗を開かれた法然上人の御影をおまつりしてきたお堂です。建築様式は唐様を取り入れた和様、大きさは、奥行35メートル、間口45メートル。周囲に幅3メートルの大外縁をめぐらすという知恩院最大の堂宇で、平面積では日本で5番目に大きい寺院建築です。寛永10年(1633)の火災により焼失しましたが、寛永16年(1639)に徳川家光によって再建され、平成14年には国宝に指定されました。 奈良時代の行基や前述した平安時代の空也のように、民間に普及して多くの弟子をつくった僧侶は法然以外にもいますが、法然と彼らの違いは最初に強固な教団組織をつくることに成功した点にあるということです。 そして、徳川家康が浄土宗の信者であったことから、知恩院は江戸幕府の手厚い保護を受けるようになります。   男坂を下り、山門を抜け、次は建仁寺に向かいます。 2014/03/27コメント(2)鎌倉時代の新仏教が誕生するまでの仏教の変遷について  空海の伝えた密教が、それ以後の平安時代の仏教の中心となっていきました。  天台宗では、最澄の後に円仁(えんにん)、円珍(えんちん)が唐に密教を学びに行きます。円仁はまた念仏も伝えました。その他の思想を包括する天台の思想を受けて、比叡山では天台の他に、密教、浄土教、禅なども学べる総合大学として活躍します。鎌倉時代に浄土宗や日蓮宗が誕生しますが、その開祖らも初めは比叡山で学び、後に独立した人たちです。 密教では加持祈祷(かじきとう)が行われます。その呪術的な力を利用して、現世利益を成就するのが祈祷ですが、貴族を中心に受け入れられました。奈良時代の仏教が朝廷による鎮護国家と学問を中心とする仏教であったのに対し、平安時代の仏教は、現世利益を主とした貴族の仏教でした。その後、一般民衆を対象に救いを説く鎌倉仏教の時代へと移行します。   密教全盛の平安時代に生きた空也 若くして仏道に入り、念仏を唱えながら諸国をめぐり歩いたといいます。空也は、橋を架け井戸を掘るなどの社会事業を行ないながら布教して、人びとから「市聖」とたたえられました。空也のこのような活動を通じて、はじめて民間に念仏が広まりました。  951年に京都に疫病が流行したとき、村上天皇は市聖として尊敬されていた空也に悪疫退散を依頼しました。このとき空也は十一面観音像をつくり、念仏を唱えながら市中をまわり、多くの人を救ったといいます。空也はのちに六原に西光寺を建てました。これが、現在の六波羅密寺です。空也の活動は鎌倉時代における仏教のような、民衆の仏教をつくるまでにはいたりませんでしたが、源平争乱期に法然が庶民に念仏を広めたことがきっかけとなって、鎌倉新仏教が誕生したといわれています。 平安時代中頃から鎌倉時代初めにかけて、災害が多発しました。また、貴族社会から武家社会へと移行し度重なる戦乱も起きるようになり、社会不安が大きくなりました。仏教には、お釈迦様の死後にどんどん仏教が廃れていく末法思想(まっぽうしそう)というものがあります。このような社会不安が高まるにつれて、即身成仏のような現世での成仏や救いを諦め、来世に極楽に往生して成仏する浄土思想が普及していきました。 鎌倉時代に入ると、中心が京都から鎌倉に移り、地方が発展していきます。また、武家階級が誕生し新しい勢力が交流しました。このような社会の変動に応じて、仏教界でも新しい動きが生じます。それが鎌倉新仏教といわれる民衆を対象とした仏教です。鎌倉新仏教は、三つの系統に分けられます。念仏によって極楽往生を願うのが浄土宗、浄土真宗、時宗で、座禅による修養を重んじるのが臨済宗、曹洞宗で禅宗と総称されます。また、法華経の救いを説き、御題目を唱えるのが日蓮宗ということですね。  これらの鎌倉新仏教は、現在にも多大なる影響を残しています。一覧にすると、次のとおりです。1.浄土宗(開祖:法然 ほうねん 1133~1212年)《右の写真》南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と、ひたすら念仏を唱えれば、極楽浄土に行けるよという教え。法然の主要著書には選択本願念仏集があります。2.浄土真宗(開祖:親鸞 しんらん 1173~1262年)親鸞は法然の弟子で、師匠の教えをさらに深く追求する・・・としているうちに、特に彼が亡くなったあと、新たな仏教宗派となっていきます。悪人正機、すなわち悪人(煩悩が深い人)を救うことが、阿弥陀の本願だ、という教えなども提唱しました。親鸞の主要著書に教行信証(きょうぎょうしんしょう)、歎異抄(たんにしょう)があります。 ちなみに、法然にしろ親鸞にしろ、かなり迫害を受け、流刑も経験しています。3.時宗(開祖:一遍 いっぺん 1239~89年)信心の有無、善人や悪人関係なく、仏様はすべての人をお救いになる、と提唱。踊念仏(おどりねんぶつ)を取り入れ、各地を遊行(ゆぎょう)したことから、一遍は遊行上人とも呼ばれます。なお、彼は死の直前に著書を燃やしたため、残っていません。4.日蓮宗(開祖:日蓮 にちれん 1222~82年)法華経(ほけきょう)こそ全てだ! 南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)という題目を唱えれば成仏できる! そして、ほかの宗派は「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」と、1つずつ凄まじい言葉で非難。もちろん、猛烈な反発を受け、日蓮にいたっては幕府によって処刑されそうになったぐらい。彼の主要著書には立正安国論(りっしょうあんこくろん)があります。5.臨済宗(開祖:栄西 えいさい 1141~1215年)現在でも大人気である、禅宗の一派。坐禅(ざぜん)により精神統一を図り、師から与えられた公案(こうあん)を解いて悟りに達すると提唱。また、既存の仏教諸派とも協調姿勢を見せ、また幕府や朝廷と深いつながりを持ち、禅は御家人の中でも大ヒット。6.曹洞宗(開祖:道元 どうげん 1200~53年)禅宗の一派で、実は栄西と道元は、禅の本場である中国で、同じ師匠から教えを授かっています(二人は年齢も大きく違うこともあって、会っていないそうですが、道元は栄西をかなり尊敬していたそうで)。曹洞宗の場合、さらに坐禅に徹することを提唱。これを、只管打坐(しかんだざ)といいます。また、臨済宗が既存勢力と協調するのに対し、曹洞宗は「わが道を行く」的なところがありました。総本山である福井県の永平寺は、厳しい環境で修行するという決意ありありの場所にあります。また、旧仏教勢力(真言宗、天台宗、律宗など)からも「お寺の中に引きこもって教義を追及するだけでなく、もっと民衆の中に入って布教活動をし、また社会福祉にも貢献しよう」と実践するお坊さんたちも結構出てきています。これらの宗派の開祖の中で、法然(知恩院)、栄西(建仁寺)、親鸞(本願寺)の三人が京都を中心に活躍しました。  2014/03/26コメント(2)平安時代末期の京都は、まさに平家に始まり平家で終わりました。武士の時代の始まり、そんな京都の様子は《歴史ウォーキング京都》平家巡り-京都(1~4)で書いていますのでご覧ください。   清盛の去った後の平家は脆く、時代は源氏の鎌倉に移っていきます。  1221年の承久の乱で幕府方の北条泰時らの軍勢が京都を制圧し、京都に六波羅探題ををおきました。そして、朝廷の監視や京都の警備にあたり、京都は鎌倉時代の半ば以降は実質的に六波羅探題に支配されていきます。 【三十三間堂】  六波羅の地は鴨川の東側で、三十三間堂と六波羅密寺の間つまり七条と五条の間にありました。もともとは平安京の外にあり河東と呼ばれていましたが、平氏の根拠地となり、鎌倉武士の常駐する区域として発展し、このことが京都の町を東方に拡大させるきっかけになりました。 【六波羅密寺】 六波羅密寺の南側に開睛小中学校があります。その学校のそばに「六波羅探題跡の石碑」があります。   貴族を担い手としてきた日本文化が、武士や庶民の文化へとかわったということで、鎌倉時代は大きな転換期となります。 京都にいる貴族が一国を支配して、文化を独占する形は完全に崩れ、各地に荘園を支配する武士が並び立ち、武士の手で地方色の強い文化が育てられていきます。 京都はどうかというと、時代がかわり都が鎌倉に移っても、手工業の先進地であり全国の流通の中心としての役割を持つことから重要視されました。これは京都の担い手が公家から商工民に移ったことを意味しています。また、鎌倉時代の民衆への文化の普及は、鎌倉仏教とよばれる民衆相手の、わかりやすい宗派の広がりをきっかけにしたものでした。このため、鎌倉文化は仏教色の強いものになりました。 鎌倉時代には法然を中心とした鎌倉新仏教が庶民の間に広がっていきます。 この六波羅の地を中心に新しい仏教の時代が始まります。現在、六波羅の周囲にはたくさんの寺院が存在しますが 、鎌倉時代にできた新仏教ゆかりの寺院を歩いて巡ってきました。  2014/03/19コメント(0)八重と襄  同志社墓地を下りて、鹿ケ谷通に入り南に下がっていくと、そこにあるのが永観堂。同志社墓地のある東山の麓にある。 "モミジの永観堂"として名高い東山の古刹。もみじは全山に約3千本あるといわれ、京都屈指の紅葉の名所である。ライトアップされた境内の紅葉が、放生池に映りこむ様子や、多宝塔を包みこむように囲む様子は、実に幻想的で一見の価値がある。 もう紅葉の時期は終わったが、それでもまだこのように最後の紅葉を見ることができた。     平安神宮の南側を流れる疎水からは東山が一望できる。疎水の左側は京都市立動物園で、その奥が永観堂で、その上の山の頂上あたりに同志社墓地がある。  幕末のジャンヌダルク 山本八重江戸時代末期の1845年12月1日、会津藩(福島県)の城下・米代三ノ丁にある武家屋敷で、山本権八(39歳)と山本佐久(37歳)の間に1人の女の子が生まれた。山本八重は子供の頃から男勝りで、石投げや駆けっこでは、男の子にも負けなかった。13歳の時には米4斗俵(60kg)を肩まで4回も上げ下げできたほどの怪力だった。山本八重も他の女子と同様に薙刀を学んだが、砲術師範に生まれて鉄砲についての知識を得ていたため、これからは鉄砲の時代で、薙刀では通用しなくなることを悟っていた。会津戦争(1868年)では、八重は若松城へ入城し、スペンサー銃を担いで戦闘が始まっている北出丸へ駆け付けた。味方の兵に「女に何が出来る」と笑われたが、山本八重はスペンサー銃を構えると、次々と土佐兵を撃ち殺していく。山本八重が持つスペンサー銃は、最新式の洋式銃で、元込め式の7連発のライフル銃だった。元込め式なので弾の挿入も早く、バネ仕掛けになっており、7連射できる。火縄銃を2発撃つ間に、スペンサー銃は数発も撃てる。スペンサー銃は、当時「元込め7連発」と呼ばれて恐れられた銃である。若松城へ詰め寄った新政府軍の土佐藩は、山本八重の正確な狙撃に苦しみ、後退を余儀なくされた。山本八重は見事に土佐兵を退けたのである。1890年(明治23年)、夫の襄が46歳の若さで病気のため急逝。襄にとっての八重は生涯最良の伴侶でした。襄は八重の腕に抱かれながら、『狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん』と言い残して亡くなった。二人の間には子供がおらず、新島家にも襄以外に男子がいなかったため、養子を迎えた。ただ、この養子とは疎遠で、その後の同志社を支えた襄の多くの門人たちともソリが合わず、同志社とも疎遠になっていったという。この孤独な状況を支えたのが女紅場時代に知り合った円能斎で、その後、円能斎直門の茶道家として茶道教授の資格を取得した。茶名「新島宗竹」を授かり、以後は京都に女性向けの茶道教室を開いて自活し、裏千家流を広めることに貢献した。当時の女性としては珍しく、精神的にも経済的にも自立した八重は、世間の目に左右されることなく、自分の気持ちに忠実に生きたといえる。日清・日露戦争では篤志看護婦となって、劣悪な環境の下で傷病兵の看護にあたった。看護婦の中には伝染病で亡くなった女性もいたほど。その功績により勲七等、そして勲六等を受章し、1928年(昭和3年)、昭和天皇の即位大礼の際に、銀杯を授与された。その4年後、夫の襄の死から42年間一人で過ごした自邸(現在の新島襄旧邸)で八重は87年の生涯を閉じた。八重の一生は、戊辰戦争で始まった。特に会津戦争では自ら戦い、自らの手で多くの人の命を奪ってきた。その後1932年(昭和7年)に没するまで、佐賀や薩摩での内乱や日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、 満州事変と歴史のうねりの中を生きていくこととなる。京都に移ってからの生き方をみると、会津戦争での体験からくる一人の人間としての償いの気持ちが、八重を動かしていたのではないかと思う。まさに、幕末のジャンヌダルク八重。  常に新しいことにチャレンジし、学ぶことによって得られる成果よりも学ぶプロセスそのものを楽しむという生き方が、八重の最大の強さとなっていたのではないだろうか。 《完》2013/12/26コメント(2)八重と襄  同志社墓地  ここには、襄と八重の周りに"山本家""新島家"の人々の墓碑や関わりの深い人たちの墓碑がある。 【山本覚馬の墓】【山本家の墓】新島八重の両親の山本権八と佐久そして新島八重の弟の山本三郎の墓碑。 山本三郎は京都鳥羽伏見の戦いで負傷し、その傷がもとで江戸にて没した。一番奥にあるのは、山本覚馬と小田時栄との間に生まれた山本久栄の墓です。山本久栄は新島八重、母佐久、みねと一緒に兄覚馬の家で世話になることになった。明治4年に生まれている。山本久栄は同志社女学校、神戸英和女学校(現:神戸女学院)で学んでいる。徳富蘆花の小説「黒い眼と茶色の目」に描かれた「茶色の目」事件のヒロインで、明治26年(1893)で若死にしている。徳富健次郎(蘆花)(1868-1927)と山本久栄の出会いは明治19年(1886)9月蘆花が同志社英学校3年に編入してからである。山本久栄の母時栄(1853-?)は明治19年(1886)に山本覚馬と離婚、その関係で同志社共同墓地に墓碑がない。【新島家の墓碑】新島襄の父親の新島民治と母親の新島登美(とみ)の墓碑。新島襄の両親の左手には3番目の姉の美代さんの墓がある。【徳富蘇峰の墓】覚馬の墓碑の右隣りには“徳富蘇峰”の墓がある。徳富蘇峰は、上京して東京英和学校(第一高等学校の前身)に通学するが満足せず、京都の新島襄に感化し同志社英学校に入学。 1880同志社卒業直前に退学し、熊本に戻る。1882大江義塾を開き、父が漢学を、蘇峰は英学・歴史・経済・政治学等を教えた。ジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家として活躍。また、政治家としても活動し、近代日本に大きな影響をあたえた。徳富蘇峰は、同志社の創立者・新島襄を生涯の師と崇め、また、新島襄の良き理解者として彼を支えた一人。そんな蘇峰ですが、同志社時代、八重に対しては無礼な振る舞いをしています。封建的な風潮が残る中、襄は日本に『近代』を根づかせるためにアメリカ式の生活を実践。八重は夫を『ジョー』と呼び捨てにし、また夫より先に人力車に乗る。そんな姿に周囲は『悪妻』とののしるが八重は気にしなかった。『頭と足は西洋だが、胴体は日本、まさに鵺(ぬえ)のような女性がいる』同志社英学校の学生達の演説会に夫婦で出席した際、蘇峰は演壇より八重を強く非難。これに対し八重は全く動じなかったと伝わっている。襄の臨終の床で蘇峰に過去の非礼を詫び、八重と和解した。蘇峰は『貴女を先生の形見と思って終生お仕えさせて頂きます』と言い、八重も受け入れる。結局、蘇峰は八重が亡くなる昭和7年まで40年以上支え続けることになる。 このように、この敷地内には山本家や新島家以外の人たちも葬られている。 その中には、このような人物もいた。 1879年(明治12年)から同志社で賄方として働き始め、その後小使(用務員)となった。松本五平の仕事ぶりは真面目だったが、松本五平は英語が喋れないのに、英語だと言って、訳の分からない言葉で演説の真似事をするような変わり者だったため、生徒から「五平」と呼び捨てにされ、馬鹿にされていた。また、松本五平は小柄で身長が120cm程度しかなかったため、「エスキモー」と呼ばれて生徒にからかわれていた。しかし、誰にでも平等に接する新島襄は、松本五平に対しても「五平さん、用事をお願いします」と丁寧に用事を頼んでいた。用務員の松本五平を「さん」付けで呼ぶのは新島襄だけだった。このため、松本五平は新島襄を敬愛し、洗礼も受けた。そして、学生に呼び捨てにされると、「お前達は学が無いから呼び捨てにするんだ。新島先生を見習え」と言い返すようになっていた。松本五平は新島襄の死後も同志社に仕えたが、やがて、松本五平も病床に伏した。松本五平は自分の命が長くないことを知ると、死んでも新島襄の近くに行きたいと思うようになっていた。そこで、松本五平は人を介して、新島八重に「私が死んだら、どうぞ新島先生の墓の門の外に埋めてください。死んだ後も新島先生の門番をしとうございます」と頼んだ。すると、新島八重は「貴方が亡くなったら、門の外ではなく、内に葬りましょう」と約束した。それを聞いた松本五平は安心して死んでいった。松本五平の死後、新島八重は約束を守って、若王子山にある同志社墓地内の出入口の直ぐ側に松本五平の墓を建ててやった。新島八重が墓の敷地内に葬る約束をしたのは、松本五平だけであった。墓地入口の右側に松本五平の墓があり、松本五平は今も同志社墓地の入口で、新島襄の墓守をしている。【五平の墓】同志社墓地で、幕末から明治という時代の大きなうねりの中を生き抜いた人たちのそれぞれの生きざまに思いを馳せながら、ゆっくりした時間を過ごさせてもらった。 2013/12/25コメント(2)同志社墓地 襄と八重の墓光明寺から丸太町通りに戻って東に進むと天王町交差点に出る。天王町交差点から白川通を南に下り、二つ目の道を東(左手)に曲がって"熊野若王子神社"を目指す。そこは"哲学の道"の南端にあたり、急に人通りが多くなる。【哲学の道】哲学の道を横切るとすぐ"熊野若王子神社"がある。【熊野若王子神社】ここまでくると、もう京都東山の麓にまで来たことになる。ここにはこのような案内が出ている。この道を突き当り、右に曲がると山登りが始まる。このような山道を約20分歩く。これが思ったよりもきつい。「ちょっと墓地まで行ってみようか」なんてとても気楽な気持ちで登れるような経路ではないので、もし行かれることがあれば、ハイヒールやサンダル等では絶対登らない方が良い。山が開けて墓地に。そこは山頂だった。十字架の墓石が目につく、同志社の共葬墓地のようだ。同志社墓地に着くとすぐ目に入ったのがこの看板。襄と襄の墓碑に関することが書かれていた。  入口正面に新島襄と八重のお墓が並んでいる。左が八重、右が襄の墓。新島襄の墓碑は勝海舟の揮毫によるもので、現在の墓碑は1987年に再建されたものだが、碑銘は元の墓碑から写し刻んだとある。46歳でこの世を去った同志社大学の創立者新島襄は葬儀の後、学生に担がれてここに埋葬された。この墓地にはたくさんの人が訪れるのだろう。とてもきれいにされていた。よく見ると八重の方は「新嶋八重」となっている。碑銘「新嶋八重之墓」(原文のまま)は徳富蘇峰による書である。 《続く》2013/12/24コメント(0)平安神宮の北側にある光明寺、ここは会津藩と縁が深い。光明寺は黒谷金戒光明寺と呼ばれ、山上墓地北東には約三百坪の敷地に『會津藩殉難者墓地』がある。 そして、会津藩が京都守護職として、最初に本陣としたのが光明寺だった。 【光明寺入口にある高麗門】高麗門(こうらいもん・僧門)をくぐりしばらく歩き左に折れると、両側に桜と松の木を従えて石段の上に大きな山門がそびえている。  「浄土真宗最初門」の勅額を掲げる金戒光明寺の山門 山門をくぐり、さらに石段を上がると広い境内に出る。そこからは、京の町が一望できる。【御影堂】昭和の建築の御影堂は正面7間、側面6間で浄土宗の宗祖法然上人75歳の御影(座像)と、洛陽三十三所観音巡礼第六番札所の観音様、吉備観音の名で親しまれている重要文化財の木像千手観音菩薩立像が安置されている。  なぜ、光明寺が本陣に選ばれたのか。その理由として、次の三点があげられる。(1)高台にあり城構えである徳川家康は幕府を盤石なものにする為に特に京都には力を注いだ、直轄地として二条城を作り所司代を置き、何かある時には軍隊が配置できるように黒谷光明寺と知恩院をそれとわからないように城構えとしている。光明寺に大軍が一度に入ってこられないように南には小門しかなく、西側には立派な高麗門が城門のように建てられた。小高い岡になっている黒谷は自然の要塞になっており、特に西からやってくる敵に対しては大山崎(天王山)、淀川のあたりまで見渡せる。因みに山内の西翁院にある淀看(よどみ)の茶席(重文)は、茶席より淀川の帆船を見ることが出来たのでこの名が付けられたと伝わっている。実際光明寺の境内からは京都が一望でき、写真のように平安神宮の大鳥居越しに、京都タワーや京都駅ビルが見える。  (2)要所に近い御所まで約2km、三条大橋東の東海道の発着点までは1.5kmの下り、馬で走れば約5分、人でも急げば15分で到着できる要衝の地であった。(3)千名の軍隊が駐屯できる約四万坪の大きな寺域により一千名の軍隊が駐屯できた。 本陣といっても戦国時代の野戦とは違い野宿ではなくきちんとした宿舎が必要であった。黒谷には大小五十二の宿坊があり駐屯の為に大方丈及び宿坊二十五ヶ寺を寄宿のため明け渡したという文書が残されている。以上が選ばれた根拠といわれている。【三重塔(国・重要文化財)】金戒光明寺は、幕末には松平容保の会津藩の京都守護職会津藩一千名の本陣になったことで、墓地には会津藩殉職者が埋葬されている。 山上墓地北東には約三百坪の敷地に『会津藩殉難者墓地』があり、六年間に亡くなられた237霊と鳥羽伏見の戦いの戦死者115霊を祀る慰霊碑(明治40年3月建立)があり、蛤御門の戦いの戦死者は、一段積み上げられた台の上に3カ所に分けられ22霊祀られている。【会津藩墓地入口】【会津藩鳥羽伏見戦死者慰霊碑】この石碑には八重の弟「山本三郎」の名前もある。 そして、ここには意外な人物が祀られている。徳川2代将軍秀忠正室である江の供養塔3代将軍家光乳母である春日局の供養塔墓地の上にある三重塔、光明寺に行くことがあれば上がってください。最後は八重や襄の墓がある同志社墓地に行きます。 2013/12/22コメント(2)京都での八重1871年(明治4年)10月に山本八重・母佐久らが京都へ到着し、山本覚馬の家で住み始める。1872年5月20日(明治5年4月14日)に、京都府河原町にある旧九条邸で女学校「新英学校及女紅場」が開校する。東京では既に、明治5年2月に「官立女学校」(東京女学校)が開校しているので、京都府の新英学校及女紅場は、日本では2校目の女学校で、京都では初の女学校である。正式には「新英学校及女紅場」だが、単に女紅場(にょこうば)と呼ぶ場合が多い。「新英学校及女紅場」を「新英学級及女紅場」と呼ぶこともあるようだ。【鴨川に架かる丸太町橋の西側にある石碑】京都御所の南の丸太町通を西へ進むと、鴨川西岸にこの石碑がある。なお、新英学校及女紅場は、1876年(明治9年)5月に「女学校及紅場」へと改称し、現在の「京都府立鴨沂高等学校」となっている。【京都府立鴨沂高等学校の正門として現在も使用されている当時の門】新島旧邸の北側にある。 一般的な女紅場は、女性が裁縫などを習って手に職を付ける場所で、京都府の新英学校及女紅場は「女紅場」に「新英学校」を併設した女学校である。新英学校及女紅場の「新英学校」は、華族や士族の女子を教育する学校で、英語や数学を教えた(後に一般身分も入学できるようになった)。「女紅場」は必須科目で、「新英学校」は希望制だった。新英学校を卒業した者は、教師になる免許を得られた。山本覚馬は新政府に提出した意見書「山本覚馬建白(管見)」で、女性への教育の重要性を指摘しており、山本覚馬建白で述べたことが、京都で女学校「新英学校及女紅場」として実現することとなった。一説によると、山本覚馬の母・山本佐久は聡明で、山本覚馬も山本佐久にはつくづく感心されられており、山本覚馬が女性への教育の重要性を悟ったのは、母・山本佐久の存在があったからだという。八重と女紅場八重は山本覚馬の家で同居するようになって以降、何をしていたのか分からないが、新英学校及女紅場に通学するようになっていた。その後、山本覚馬の推薦により、権舎長・教導試補として新英学校及女紅場で働くことになる。山本八重は教導試補として新英学校及女紅場で、小笠原流礼法と機織りを教えた。小笠原流礼法は会津藩の日新館が会津藩士に教えていた武士の礼儀作法で、機織りは会津で盛んだった産業である。教導試補と同時に権舎長となった山本八重はこれ以降、新英学校及女紅場の宿舎で寝泊まりするようになったため、あまり山本覚馬の自宅には戻らなくなった。山本覚馬が18歳の愛人・小田時栄と同棲しているところに、山本八重らがやってきたという経緯があるため、山本覚馬は山本八重に権舎長の仕事を任せたのかも知れない。八重が残した回想録その年の春頃、八重と襄は、三条大橋の近く、木屋町にあった宣教師ゴードンの京都の宿で、初めての出逢いをしている。その時、玄関で靴磨きをしていた襄を八重はボーイだと勘違いし、挨拶もせず通り過ぎたとか。しかし、その後、お互いの話をしたのでしょう、その数日後、4月のある日に、襄は、八重が勤めるこの女紅場の見学に来ています。きっと、八重に、学校との橋渡しをお願いしたのでしょう。学校設立に燃える襄は、ここで英語の授業などを参観し、「よくそんな難しい本を習っているな」と驚きの感想を八重に述べたようです。もしかすると、八重の機織りなどの授業も垣間見たかも知れません。八重が校内の案内役を買って出たのかも知れませんね。 「教育」という点で同じ方向を向いている二人ではありますが、出逢って間もないお互いの印象はどうだったのだろう? 女紅場跡前に広がる鴨川(対岸より撮影)この時、八重は数え年で31歳、襄は33歳。この時から約半年後には婚約をする二人。当時まだ珍しい洋行帰りで、行動力抜群の襄が、八重の目にはどのように映ったのだろう。色々と想像を膨らましてしまう、そんな場所が、この鴨川が目の前に広がる女紅場跡だ。八重と裏千家との出会い八重が新英学校及女紅場で働き始めたとき、裏千家13代の千宗室(円能斎)の母・猶鹿子(しかこ)が新英学校及女紅場で茶道を教えていた。京都の新英学校及女紅場は、華族や士族の女子を教育する学校なので、茶道や華道も盛んだった。山本八重は新英学校及女紅場で猶鹿子(しかこ)と知り合ったことがきっかけで、茶道を始めることになる。山本八重が本格的に茶道を始めるのはもう少し後のことだが、茶道は、晩年の山本八重の拠り所となっており、猶鹿子との出会いは山本八重にとって運命の出会いであった。【新島旧邸】 明治8年(1875年)、日本初の本格的キリスト教学校創設をめざし、留学先のアメリカから帰国した新島襄は、この邸宅を完成させ、同年、この邸宅で同志社英学校を創始。同志社発祥の地とされている。翌明治9年、同志社英学校は旧薩摩藩邸(現在の同志社大学今出川キャンパス内)に移る。この年、襄は八重と結婚。以降、この邸は新島襄と八重夫妻の自宅として使われた。木造2階建ての新島旧邸。アメリカ暮らしが長かった新島襄の好みに合わせた、外観は洋館、内部は和洋折衷の家。書斎の机は新島襄が使っていたそのままのものだ。和式を好んだ八重は、脚のないベッドを使っていたそうで、二階にあり見ることはできなかった。台所は土間ではなく板の間で、水回りは現在のキッチンと同じように動きやすくシステム的に作られている。また、暖炉があり、二階までダストがつながっておりセントラルヒーティングシステムになっているから驚きである。二階建て本宅の隣りには和風平屋が併設されており、こちらには新島襄が実家から呼び寄せた襄の両親と姉が住んでいた。   【新島襄像】明治23年に襄が没した後も八重が一人で住んでいたが、明治40年八重は自宅を同志社に寄付。その後も八重はこの邸に住み、昭和7年(1932年)、この邸で没した。86歳だった。25歳で京都に来た八重は、結局京都での生活は61年間に及んだことになる。 新島邸は、昭和60年(1985年)京都市無形文化財指定、平成2年(1990年)全面改修の後、平成4年より一般公開。現在、同志社大学の所有となっている。  2013/12/21コメント(2)八重の兄山本覚馬について知っている人は少ない。覚馬は新島襄ほど知られていないが、実は襄や八重の活躍はこの覚馬がいなければなかった、といっても過言ではないのである。 覚馬京都へ山本覚馬は文政十一年、会津の砲術家に生まれる。長男であったために家を継ぐべく馬、槍、弓、刀といった武術から砲術まで会得し、江戸屋敷勤務時は佐久間象山、勝海舟らに教えを受け、西洋砲術を学び、会津藩に近代砲術の必要性を説く藩内の先進的藩士であった。そのため保守派と対立し、自宅謹慎処分を受けたりもしたが、軍事取締役大砲頭取に任ぜられ、藩内では重要な一地位を占めていた。      会津藩主松平容保(かたもり)が京都の治安を担って、京都守護職として京都に上ったとき、覚馬もそれに同行したのである。 覚馬負傷する     元治元年(一八六四)七月十八日、覚馬に運命の日が訪れる。前回お伝えした蛤御門の変が勃発する。蛤門を守っていた山本覚馬はこの戦いで傷を負い、12年後には完全に光を失うこととなる。のち長崎に西洋銃の買い付けに行ったりするが、やがて会津に戻り、静養に励むことになる。  再び京都へ 藩に戻ったものの、覚馬は急遽京都へとの指令により再び京都へ赴く。慶応二年(一八六六)のことで、この年七月二十日将軍家茂が死に、年末の二十五日には孝明天皇も急死する。この公武合体を進めた両人の死で、長州を中心とする勤王派が時代の趨勢となったことは誰の目にも明らかであり、このまま会津藩主が京都守護職を続けることは、会津がひとり時代に残されることを意味していた。藩主容保はただちに京都守護職返上を願い出るが、新将軍慶喜はそれを許さず、結局藩内の抵抗を押し切ってまさに「時代の犠牲となる覚悟」で徳川衷心の道を続けることとなる。会津はこうしてまた一歩悲劇への道へ足を深めたのだ。      翌慶応三年(一八六七)に入ると、幕府と勤王側の衝突は避けられない情勢となる。こうした中、土佐藩は後藤象二郎を京都会津藩邸に送り、王政復古に同意を求めてくる。一戦を交えて決着をつけるか、妥協をはかるか、悩んだ末藩も土佐に同意。そして十月十三日将軍慶喜は二条城に重臣を集め、そこで大政奉還を告げる。ここに朝廷派は勝利を収める。      鳥羽伏見の戦いと覚馬 慶喜も、また会津を中心とする幕府側諸藩も、大政奉還後はそれなりの待遇を期待してのことであった。しかし薩摩、長州、土佐はそうした配慮をせず、将軍は大阪城に退き、会津藩士も京都屋敷を出て大阪へ赴いた。こうした中、盲目となった覚馬は長州や薩摩との接触を試みるために、ひとり藩邸に残る。       正月を迎えた慶応四年、大阪へ退去した将軍は会津はん藩に京都に入ることを命じ、鳥羽までやって来た幕府軍は守護する薩摩兵と衝突、撃ち合いになる。一方伏見でも御香宮(ごこうのみや)に陣取る薩摩、長州軍と、そこを破ろうとする会津藩兵との間で戦闘が開始、鳥羽、伏見の戦いが始まった。開戦を知った覚馬は出入りの商人らに頼み、荷車に食料を積み、会津藩兵に届けようと京都を出る。しかし途中で薩摩兵に見つかり、やがて薩摩藩邸の牢に繋がれることとなる。寒い時期であり、持病のリューマチが再発し、その激痛に耐える大変な時期であった。      形勢不利と見た将軍慶喜は、その夜秘かに大阪湾から軍船で江戸へ脱出し、戦意を失った幕府軍は敗走する。そして江戸で体制を整えるとした将軍は上野寛永寺に籠もり恭順の意を表わす。結局、慶喜は戦っている会津藩を見殺しにし、自分だけ江戸に逃げたうえ、会津藩には徹底的に戦うと言っておきながら、長州・薩摩藩に対してすぐに白旗を揚げてしまったのである。やがて追撃する朝廷軍は北陸から東北へと迫り、徹底抗戦の長岡藩と会津藩がどうなったかは歴史が物語る通りである。      会津は戦いで多くの侍や婦女子が死に、さらに新政府成立後は不毛の地、下北半島の一角斗南に追いやられ貧苦に耐え、会津に残った者も職がなく、人力車夫に身を落とし貧に甘んじる者も多かった。「最も信義を重んじ忠義に生きた者が捨てられ憂き目を見る」まさに会津の姿はこの一語に言い尽くされていたのである。 覚馬は薩摩に捕らわれの身であったため、また牢から出たあとも盲目のうえ自由に歩けない体になっていたため、家族を助けに会津にも行けず、探しに行くこともできなかったのである。山本覚馬の活躍 苦渋の牢獄にあって、覚馬は新政府はどうあるべきか、牢中の男たちと語り、「管見」と題して薩摩藩へ提出する。藩の滅亡という苦悩の中、盲目とリューマチの激痛に耐えながらの行動であった。      やがて牢から出された山本覚馬は、岩倉具視などの目に止まり、軍務官役所への出仕を命ぜられる。彼はまず小学校設立に奔走し、明治二年五月日本初の柳池小学校開設にこぎつける。これを皮切りに、明治五年博覧会の開設、女学校女紅場の開設、伏見製鉄所の開設など京都府役人・槙村正直と組んで革新的な事業に乗り出す。こうして暴漢に襲われ、脊髄に損傷を受け半身不随となっても、初代京都府知事になる槙村正直の顧問格としてさらに京都復興にあたった。京都府に議会が開かれると、その初代議長に任命され、政治にも手腕を示したのである。さらにキリスト教学校を創ろうとしていた新島襄を知ると、みずから所有の土地を安く提供(現在今出川同志社の敷地)し、仏教界の強い京都でキリスト教学校設立を側面より強力に支援する。これこそが八重と襄が出会うきっかけとなるわけで、二人の運命の糸を手繰り寄せたのは実は八重の兄覚馬だったということである。【博覧会会場となった平安神宮大鳥居】明治二十八年(1895年)平安遷都1100年を記念して行われた京都博覧会のメイン 会場京都では日本最初の博覧会が,明治4(1871)年西本願寺で行われた。これを機に,京都府と民間によって創設された京都博覧会社は,明治5年,西本願寺・建仁寺・知恩院を会場として第一回京都博覧会を開催。外国人観光客もたくさん訪れた。 京都博覧会社(のち京都博覧協会と改称)主催の京都博覧会は,昭和3(1928)年まで,ほぼ毎年開催されている。【平安神宮応天門】  山本覚馬の人となり 一地方の侍から、盲目、敗北、半身不随と多くのハンディを背負いつつもなおくじけを知らず、己の信念を推進した男・山本覚馬。この一地方侍をしてここまで至らしめた原動力は一体何だったのか?      人はたとえ身体にハンディを背負っても、精神が確固としておれば、岩をも砕く。山本の生き様はまさにこの言葉を如実に示しており、その糸口を探るには牢中で書いた「管見」にある。「管見」は国を富ます上での施策を述べたもので、基本は商業の重視や機械化にあり、その実行として教育の需要性を説き、学校、女学校の設立、西洋時間制の採用の必要性を説いている。おもしろいのは山本覚馬自身の体験が色濃く反映されていることだろう。山本覚馬は自分の体験したいわば狭い世界から築きあげた見識を正しいと信じ、その実行に驀進した。まさに愚直そのものの人であった。しかし同時に愚直であるが故に、己の信じるものへ真っ直ぐに進むことが出来たのだ。覚馬の写真を見ると、正面を向き、自信に満ちた表情をしている。儒学者然として信義を失わぬ面構えだ。京都に来た後、時恵という女性が身辺の世話をし、やがて夫婦となる。元の妻宇良とは離婚する。そしてやがて時恵をも破門する。一見信義と矛盾する生き様だが、実は如実にこれがこの男の生き様を物語っているとも思われる。  どうでしたか、まさに同志社の成立はこの覚馬抜きでは考えられない、いや現在の京都があるのは覚馬抜きでは考えられないということが理解いただけましたでしょうか。  2013/12/20コメント(2)同志社から、西側にある烏丸通りを下ると、京都御所の石垣が続く。  石垣に沿って歩くと、その途中にあるのが"蛤御門"蛤御門といえば“蛤御門の変”、蛤御門の変といえば長州藩と会津藩ということになるが、八重とこの京都をつないだものはいったい何・・・・・・。  八重が京都に来ることになるきっかけは、やはりこの京都にあったといえる。八重の家山本家は会津藩の砲術家であった。八重が生まれた時代は、幕府の力が日に日に落ちる幕末であり、京では不逞浪士たちの天誅(てんちゅう)騒ぎが続き、それまで都の治安を担っていた京都所司代と京都町奉行では抑えることができなくなっていた。そこで幕府の威信をかけて新設されたのが「京都守護職」。ドラマの中で八重も勘違いしたとおり、名前だけ聞くと名誉な職のようだが、その実は、困難が目に見えた損な役割だった。しかも京は、会津とは気候も文化も異なる地。純朴で生真面目な山国の藩士たちが、気位の高い公家たちと付き合いながら、西国諸藩の武士と渡り合うのは至難の技だ。さらに藩の財政は相次ぐ天災や江戸湾の海防警備などで火の車。故郷からあまりに遠い京への出兵ははなから無謀といえるものだった。京都守護職の拝命。それは会津藩を悲劇へと導くことになる重い重い決断であり、山本家の人たちの運命はその決断に大きく動かされることになっていく。そして、文久2(1862)年の12月、松平容保は千人の会津藩士を連れ、京に向け出立する。【蛤御門】蛤御門(はまぐりごもん)の変は,禁門の変(きんもんのへん)や元治甲子の変(げんじかっしのへん)ともいい、元治元年(1864)に起こった。 前年の文久3(1863)年8月18日の政変で,長州藩は京都での地位を失墜しており、その後、長州藩は藩主父子の名誉の回復と京都から追放された尊王攘夷派公家7名の赦免を願いたが許されず、さらに翌年6月5日には、池田屋事件で藩士多数が殺された。このような状況下,長州藩の勢力回復をねらい、三家老(福原越後・国司信濃(くにししなの)・益田右衛門介)が兵を率いて上洛。7月19日、京都守護職の会津に薩摩が加わった幕府連合軍と現京都御苑蛤御門・堺町御門(さかいまちごもん)附近で戦い、長州藩は敗北した。戦いは一日で終ったが、9月19日朝、長州藩邸等から出火した火災による被害は、北は丸太町通、南は七条通、東は寺町、西は東堀川に至り、現在の中京区・下京区のほとんどの地域に及んだ。21日に鎮火したが、800か町、2万7000世帯、そのほか土蔵や寺社などが罹災した。 名の知られた寺院では、東本願寺・本能寺・六角堂が焼失。京都御所・二条城・西本願寺は、火がすぐ近くまできたが焼失は免れた。長州藩邸や堺町御門から出た火が、手のほどこしようもなく燃え広がるありさまを京都の人たちは「どんどん焼け」「鉄砲焼け」などと称した。【京都府庁】京都守護職の屋敷は、文久3(1863)年末京都市上京区下立売通釜座上る現在の京都府庁内に新築された。 当時、京都守護職の屋敷の敷地は、約3万坪に及んだという。 慶応3(1867)年12月に廃止され、その跡地に京都府庁が移転した。【京都守護職の屋敷門】京都守護職屋敷の門は岡崎の平安神宮近く、左京区聖護院にある。現在、武道センターと呼ばれる施設の南側で、平安神宮へ参拝にくる大型観光バスがたくさん止まる駐車場の所に京都守護職屋敷の門が移築されている。 もう一つは、二条城の向かいにある京都国際ホテルで、その裏手の駐車場に突如現れる威厳ある門。これが、京都守護職屋敷の門と伝わっている。  蛤御門はもとは新在家門(しんざいけもん)といい,普段は閉ざされていたが,宝永5(1708)年の大火で開門されたので「焼けて身をあく蛤」から蛤御門と呼ばれたと伝っている。《続く》2013/12/19コメント(0)八重と襄八重が兄の覚馬を頼って、母・姪とともに会津から京都へ移ったのは1871年(明治4)のことだった。ほどなくこの地で生涯の伴侶となる新島襄(同志社大学創設者)と出会い、5年後には結婚することになる。襄も日本が明治になったことで日本に帰国、時代の大きなうねりの中で巡り合った二人は、まるで以前からつながっていたかのように、1本の糸を手繰り寄せるように結ばれる。【同志社大学の掲示板にあった「八重の桜のポスター」より】NHK大河ドラマ『八重の桜』も15日が最終回。過去にこだわらず、常に新しいことに挑戦する。それもやり始めたら納得いくまでやり抜き、面白いと感じることができるまでこだわり続ける。知性ある“おとこまえ”な女性襄はそんな八重に惹かれ、日本の将来を担う女性の姿が重なったのかもしれない。そんな八重と襄のゆかりの地、京都を訪ねた。【同志社大学構内】新島はアメリカにおける近代国家の仕組みよりも近代国家を作り出した人間に強い関心を示し、とりわけアメリカの中・高等教育機関がキリスト教主義教育、自由教育を通して、知・徳・体の調和のとれたトータルな人間を教育し、彼らが地方や国家のリーダーとなって、アメリカの政治、経済、文化、教育をリードしていることに注目した。 帰国直前の1874年秋、バーモント州ラットランド市グレイス教会で開催された、アメリカンボード第65回年会で、「日本にキリスト教主義の学校を作りたい」と涙ながらに訴え、総額5000ドルの寄付金を得た。 同年、10年にわたる海外での生活を終え、帰国。山本覚馬(八重の兄)を紹介され、彼の協力を得て、日本の近代化のリーダーとなる人物の育成を目ざし1875年11月29日に同志社英学校を開校した。【左が同志社大学正門、右が同志社女子大学西門】京都御所今出川御門より京都御苑の北側には同志社大学、同志社女子大が広がる。そのキャンパスには煉瓦造り建物が幾つかあり、国の重要文化財に指定されている。同志社大学キャンパス正門を入ると、まずあるのが良心碑。良心碑の西側に有終館、北に進んでクラーク記念館、ひとつ建物があってハリス理化学館、続いて礼拝堂、彰栄館と重要文化財の煉瓦造りの建築物が並ぶ。【有終館】有終館は明治20年(1887)、レンガ造りの図書館として建築された。当時は日本最大の学校図書館だったとか。所々に黒く焼き上げたレンガが使われており、洗練されたアクセントになっている。なお、それ以外にも煤けた壁面が見られるのですが、これは昭和天皇の即位式典の際の出火で煤けた跡だそうだ。内部は焼失しており、そして即位式典中の失態だと云うことで、取り壊しの論議もあったが、武田五一によって外壁保存が行われ今に残る。そして有終館の前には、新島襄の言葉が掲示しており、襄の精神を今も伝えている。   【クラーク記念館】クラーク記念館は同志社のシンボルとも云える建物で,設計はR.SEELで、アメリカのクラーク夫妻の亡き息子のメモリアルホールを造ってほしい、との願いで明治26年(1893)に竣工した。   【同志社大学礼拝堂】レンガ造りのプロテスタント礼拝堂としては日本最古の建物。同志社創立に尽力した3名の人物、新島襄(八重の夫)、山本覚馬(八重の兄)、J・D・デイヴィス(八重に洗礼を授け、新島襄との結婚式を司式した宣教師)の肖像画が正面に掲げられている。礼拝堂の前にある石碑にはうっすらと新島襄の文字が彫られており、おそらく襄が残した言葉が刻まれているのだろう。大河ドラマの影響なのだろう、構内のあちこちで襄と八重が目立っており、なにか構内に活気を感じたのは私だけではなかったと思う。この日は特別講演会も開催されていた。《続く》2013/12/17コメント(2)こんばんは三千院には有清園・聚碧園と呼ばれる京都有数の二つの美庭があります。とくに苔庭と新緑・紅葉の美しさは息を呑むほどです。桜、アジサイ、紅葉の美しさ、雪景色のすばらしさと、三千院は季節ごとの叙情をかきたててくれます。境内の東の高台にある観音堂往生極楽院から東の高台へ進むと金色不動堂、観音堂があり,金色不動堂の東の道には枝垂桜があります。広い境内の中には、このように水が流れ、自然をそのまま取り入れています。有清園の東にある紫陽花苑この辺りの小道は、紫陽花が両側に植えられ、きれいに花を咲かせ始めていた。紫陽花を見に来られたのでしょう。多くの人で賑わっていました。お土産に“紫蘇入りの昆布茶”と“桑入りの八橋”を買って帰りました。大原の里平安の時代から歴史を刻み、時代の荒波を受けることなく、現在にまで日本の里の風景をしっかりと残しながらその歴史を伝え続けている“大原の里”大切にして守り続けたいですね。2013/08/08コメント(2)こんばんは宸殿から往生極楽院阿弥陀堂が見えます。歴史を経た侘びたたたずまいが有清園の自然と調和し、かつての華麗さとは別の魅力が風情を漂わせています。 本堂の往生極楽院阿弥陀堂は、平安末期の久安4年(1148)の建立で、高松中納言実衝(さねひら)の妻・真如房尼が29歳の若さで夫を亡くし、供養のために建てた常行三昧堂とされています。真如房尼は、90日間休まず念仏を唱えながら、ひたすら仏の周りを回る不眠不臥(ふみんふが)の業を約30年間も続けたといわれています。この小堂内には中央に、阿弥陀三尊が鎮座しており、阿弥陀如来像を中心に、向かって右側に観音、左側に大勢至菩薩(たいせいし ぼさつ)が配されています。左右の観世音菩薩像と勢至菩薩像は、少し前かがみの正座する「大和坐り(やまとすわり)」という大変珍しい姿で、来迎の姿をあらわしています。 苔むす庭に住むわらべ地蔵たち ご覧ください  なんとも愛くるしい笑顔とポーズ。腹ばいになっている姿や、手を合わせている姿に、こちらもついつい手を合わせたくなる。穏やかな表情に心が洗われるようでした。 三千院をはさむように、大原を涼やかに流れる呂川と律川。「呂律が回らない」との表現は短調の呂曲・長調の律曲からなる声明から派生したものですが、大原の二つの川にこの名を冠していることからも、この地が声明の本拠であることがわかりますね。2013/08/07コメント(2)こんばんは大原めぐりの旅の中心となるのが三千院です。山門の前まで来ると急に人が増え賑やかになります。三千院の名は、明治4年につけられたもので、それまでは円融坊(えんゆうぼう)と呼ばれていました。円融坊が設立されたのは保元元年(1156年)で、そのとき、後白河天皇が叔父の最雲法親王(梶井門跡)に"大原寺"とよばれた大原の天台系の寺院群の管轄を命じたことで、最雲法親王は円融坊を支配下において、大原に点在する諸寺を支配するようになりました。保元といえば"保元の乱"ですね。平清盛を筆頭に武士が台頭してきた時代で、その武士の成長を恐れた後白河天皇が、比叡山と貴族社会とを結ぶ位置にある大原を皇室の指導のもとにおいて、比叡山を味方につけておこうと企てたことで、この三千院が誕生したということです。ということで、この円融坊は、出家した親王が治める宮門跡(みやもんぜき)の支配下におかれて、明治4年に門跡号が廃止されるまで、皇室と密接な関係を持ち続けることになるわけです。門跡  皇子や貴族などが住する特定の寺院のことを門跡といい、その寺院を支配する法親王などが〇〇門跡というような敬称で呼ばれていました。)【三千院 御殿門】だから、"三千院門跡"といっても三千院の門があった跡という意味ではなく、"三千院寺"という意味になるわけですね。拝観入口(庫裏)から靴を持って"客殿"に上がります。【客殿】 客殿(きゃくでん)は、桃山時代末期から江戸時代初期(17世紀初頭)の慶長年間(1596年から1615年)に建て替えられた旧御所の旧材を用いて建てられた建物です。   客殿の庭を見ようと、多くの人がこのように思い思いに足を伸ばしてくつろいでいました。   自然の山を借景に、なんともスケールの大きな庭でした。【宸殿】宸殿(しんでん)は、1926年(大正15年)に建てられた建物です。宸殿の中の間には本尊の薬師瑠璃光如来(秘仏)、西の間には木造救世観音半跏像(国重要文化財)や木造不動明王立像(国重要文化財)などが安置されています。ここで、毎年5月30日に雅楽と声明で有名な御懴法講が行われます。宸殿を出ると、次は往生極楽院に向かいます。2013/08/03コメント(2)こんばんは三千院の山門の前には茶屋が並んでいます。この日は暑かったのでソフトクリームがよく売れていました。三千院は後で拝観するとして、"勝林院"目指してまっすぐ進みました。   茶屋の前を通り抜けると、正面に"勝林院"が見えてきます。ここまで来るとほとんど人気がなくなります。この坂道の左手に"実光院"があります。【実光院】勝林院の子院で、同じような子院として、宝泉院、普賢院、理覚院などがありましたが、大正8年に普賢院、理覚院を併合し現在に至っています。客殿の欄間の三十六詩仙画像は江戸時代中期の狩野派の画家によるもので、声明に使用する楽器なども陳列されています。庭園は、東側が、池泉観賞式の庭園で、江戸時代後期の作庭、律川から導いた滝の水が流れ落ち、池の手前を俗世間、向こう側を仏の浄土に見立てて作られています。庭には、11月頃に満開になり、春にもまた咲くという不断桜がしっかりと根を下ろしています。紅葉との対比が魔か不思議な世界を作り上げます。ここは結構飛ばして行く人が多いようで、ひとり静かにたたずみたい人にはお薦めです。お茶と茶菓子をいただいて侘にひたってください。 【勝林院】勝林院は、声明の根本道場として1023年に大原に初めて開かれたお堂で、天井の高い本堂の中は、ひんやりした空気が漂う厳粛な雰囲気でした。堂内には実際の声明を少しだけ聞く事のできる装置もあり、ボタンを押せばお堂中に声明が反響し、まるでミサに来たような荘厳さでした。装置の傍にあるのが八講壇と呼ばれる問答台で、念仏によって極楽往生ができるか否かを論争した大原問答が行われたところだそうです。【宝泉院】宝泉院(ほうせんいん)は、勝林院西側にあり、勝林院の支院です。適当なところに座り、庭園を見ていると抹茶が運ばれてきました。宝泉院の見所は何といっても庭園です。客殿の奥に座ると景色が一番美しく見えるということです。左右の柱、鴨居、敷居を四角の額縁に見立て、その奥に見える庭園を「額縁庭園」といわれています。西の額縁庭園は、緑の美しい楓と竹林。今は緑一色ですが、秋には楓が紅葉して美しさが増すことでしょう。南の額縁庭園は樹齢700年余り、見事に手入れされた五葉の松を見ることができます。客殿から見えるこの庭の名は「盤桓園(ばんかんえん)」といって、立ち去りがたいとう意味らしいです。  庭園を近くで見ようと広縁に出て、何気なく天井をみて驚きました。血痕があちらこちらに残る「血天井」がありました。説明によると、慶長5年(1600)7月、伏見桃山城での出来事。城の留守居をしていた鳥居元忠(もとただ)ら1800人は、小早川秀秋ら4万人の軍勢に攻め込まれ陥落、元忠は自刃したといいます。徳川家康は城を留守にしていて難を逃れたのですが、忠義を尽くした元忠の志を仰ぎ見ることが最大の供養として、血痕の残る床板を、家康に縁のある京都の複数の寺に移している。その一つが、この宝泉院の「血天井」ということです。ほんとうに立ち去りがたい、心の落ち着く"宝泉院"でした。勝林院から三千院に向かう道、なかなか良い感じですねぇ右側の途中に実光院があります。【順徳天皇、後鳥羽天皇 大原陵】三千院から勝林院へ向かう参道の右手にあります。拝所から見て向かって右手に後鳥羽天皇の陵となっている「十三重塔」、左手に順徳天皇の「円丘」がありますが生垣に隠れて見えませんでした。大原に行かれたときは、かならず足を伸ばしてそれぞれの院を楽しんでみてくださいね。 2013/08/01コメント(2)こんばんは音無の滝から歩いてきた道を引き返します。すぐにあるのが“来迎院”で、道沿いの金網越しに本堂をみることができました。【来迎院(らいごういん)】1109年(天仁2)、聖応大師良忍(しょうおうだいしりょうにん)が、俗化した叡山を離れ、来迎院を大原に建立。円仁によって伝えられた声明は、当時七つの派に分かれていましたが、良忍がひとつに統一し、「魚山流声明」として集大成しました。来迎院は三千院奥にある勝林院と並んで声明道場の中心をなしました。魚山流は、その後天台声明の主流となり、大原で受け継がれています。声明は、寺院で行われる法要儀式の中で、仏教の経典などに節をつけて唄う仏教音楽ですが、日本音楽の源流といわれ、民謡や演歌などに大きな影響を与えたといわれています。【来迎院本堂】来迎院本堂に安置されている「薬師如来(やくしにょらい)」「釈迦如来(しゃかにょらい)」「弥陀如来(みだにょらい)」はそれぞれ重要文化財に指定された、藤原時代の木造漆箔寄木造。円満でやわらかい曲線は、見るものの心を落ち着かせてくれます。毎週日曜日13時に来迎院の庭にある鐘が鳴らされ、本堂にて住職による声明を聴くことができ、声明の歴史も丁寧に説明してくださるそうです。声明は静かなお堂に深く響き、心休まる音色です。三千院とは違い、人の往来も少ない来迎院。ぜひ心を無にして声明を学んでみてはいかがでしょうか。【浄蓮華院(じょうれんげいん)】浄蓮華院も魚山声明の根本道場として建立されたのですが、この寺で知られるのは宿坊(しゅくぼう)で、一般の方でも寝泊りできます。ここでは、大原の食材を使った精進料理(しょうじんりょうり)が味わえるということです。【蓮成院(れんじょういん)】蓮成院と浄蓮華院は三千院境内に建立された塔頭の一つで、蓮成院は「北の坊」と呼ばれていました。塔頭(たっちゅう)について禅宗寺院の子院で塔中とも書きます。もともと高僧の住房や庵居から発展したもので、山号をもたず,院,庵,軒などと呼ばれます。独立した一寺ではありませんが,所領を保有して末寺をもち,同門の派徒のよりどころとして一派の拠点となって規模も拡大し,実質的には一寺として発展してきたものです。 2013/07/31コメント(2)こんばんは寂光院から大原バス停まで戻り、三千院のある大原来迎院町に向かいます。ここ大原の里の歴史は古く、平安初期の僧・円仁が声明の修練道場として開山した、来迎院を上院、勝林院を下院として『魚山大原(たいげん)寺』を建立、総称したのが、大原という地名の始まりとされています。1949年(昭和24)に京都市に編入されましたが、大原の里には寂光院や三千院だけでなく、天台宗の声明(しょうみょう)音律の根源地とされる来迎院(らいごういん)を始め、数多くの古寺名刹が点在しています。また後鳥羽天皇や順徳天皇陵の御陵があり、昔を今に偲ばせています。【呂川(りょせん)の茶屋通り】 茄子と赤しそを塩のみで漬け込んだほんとに素朴なお漬物「大原の生しば漬」が有名ですね。紫蘇ジュースや紫蘇の入ったお茶、栃餅、紫蘇餅、等々、お店もなかなか面白いですね。それから、アイスきゅうりは春から夏の大原名物として定着しているそうです。三千院は後で行くとして、先に大原のもっとも奥にある"音無の滝"に行くことにしました。左が三千院の石垣、右が呂川 このような雰囲気の一本道を登っていきます。滝に近づくにつれだんだん山深くなってきます。完全に建物が無くなって山の中を歩くようになってくると、さすがに観光客も2、3人という状況になってきました。すると初めて道が分かれているところがあり、そこには道標があり左は比叡山への登山道と書いてありました。大原から比叡山に登れるんだと改めて思いました。もともと、天台宗を指導する比叡山が、仏をたたえる声明の修練道場を開山したことで、この大原が開け、都とのつながりもできたわけですから、この大原は比叡山とは近く、また強く結びついているということですね。 名勝"音無の滝"に向かいます。名前は昔、高僧がこの滝に向かって声明(しょうみょう)の練習をしていると、滝の音と声明が和して滝の音が消えた、という故事によるそうです。【音無の滝】大原の柴漬け 大原に移った建礼門院を慰める為に、里人が、夏野菜と大原の赤しばを塩で漬け込んだものを建礼門院に出したところ、大変喜び、しその葉(紫の葉)にちなんで、建礼門院が柴葉漬け(柴漬け)と名付けたといわれています。紫は高貴な色、建礼門院のイメージに合いますね。 そして里人の建礼門院を思いやる心のこもった味がしそうですね。 2013/07/29コメント(2)こんばんは寂光院から三千院に行く途中で出会った昔話や建物を紹介しましょう。"東海自然歩道"の案内の看板があり、その下には"乙が森"にまつわる大原の伝説が記載されていました。この東海自然歩道は、自然歩道という名前からくるイメージとは程遠いものなんです。東海自然歩道とは、東京都の数少ない自然に恵まれた行楽地である明治の森高尾国定公園から、これも大阪府の数少ない緑豊かな行楽地である明治の森箕面国定公園まで続く山道を主体とした歩道のことで、なんと東京から大阪まで続いている歩道なんです。環境庁自然保護局の主導で、各地の自然公園を連絡する歩道として昭和49年9月に完成したそうで、関東と関西の両大都市圏を起点としたこの歩道は、日本の大動脈である東海道と平行するように続いています。途中、コースが別れるところもあり、これを加えると総延長1697.2Km(静岡県発行ガイドブックより)にも及ぶ長い道のりなんですねぇ"東海自然歩道"の案内の看板乙が森(おつうがもり)の中は大蛇の絡まったような大きな藤蔓があり、森の中央には龍王大明神の碑が建てられています。大原に伝わる昔話をひとつ大原川の上流にある女郎ヶ淵に身を投げた「おつう」という女性が蛇身となって川を下り、この森で自分を捨てた若狭の領主の行列を待ち伏せして妨害したので、松田源太夫という侍が退治してその尻尾を花尻の森に埋め、頭の方を乙か森に埋めたということです。今でも、年に一度"乙"の法要がおこなわれているそうです。茅葺きで屋号を詫助と称した大原耳順庵耳順庵は、寂光院へ行く途中にあります。この辺、寂光院の方から流れ出し高野川へ注ぐ草生川の周りは土地改良の手が入っていないようで。。。昔と変わらない風景ですね。この辺は彼岸花がとてもきれいなところでもあります。草生町の山里の風景 (町中を流れる草生川) この草生川が注ぐ高野川は、さらに三千院の裏山を源とする呂川を合わせ、比叡山の西麓を南進していきます。そして、花園橋で白川通と交差し岩倉川を合わせ、出町柳の加茂大橋で賀茂川と合流して鴨川となります。ということは、この大原の里を流れているきれいな水は、鴨川を流れやがて桂川の水と合流し、淀川から瀬戸内海に流れ込んでいるということです。2013/07/28コメント(2)こんばんはこの緑の木々の中の石段を上がっていったところに“寂光院”があります。寂光院は天台宗の尼寺で、山号を清香山、寺号を玉泉寺といい、寂光院は玉泉寺の子院であり、推古2(594)年に聖徳太子が御父用明天皇の菩提を弔うために建立されたと伝えられています。初代は聖徳太子の御乳人であった“玉照姫”で、以来代々高貴な家門の姫君らが法灯を守り続けてきたということです。第二代は藤原信西の息女の“阿波内侍”で、崇徳天皇の寵愛を受けた女官でありましたが、出家後に入寺し『大原女』のモデルとされている方です。第三代が“建礼門院徳子”で、源平の戦いに破れ、壇ノ浦で滅亡した平家一門と、我が子安徳天皇の菩提を弔い終生をこの地で過ごされました。寂光院のご本尊様は六万体地蔵尊と称される鎌倉時代造立の地蔵菩薩立像(重要文化財)でしたが、平成12年5月9日未明、心ない者の放火により、本堂とともにご本尊様は大きく焼損してしまった。その後修理を施されて、現在は境内奥の耐火構造の収蔵庫に安置されていました。門をくぐると、目の前には本堂があり、左手には汀の池があります。本堂前の汀の池のそばには、古来より櫻と松が寄り添うように立っていて、その櫻を「みぎわの櫻」といい、松を「姫小松」といいました。姫子松は細長く柔らかい松の葉が5本が一組になってつく、いわゆる五葉松のことで、寂光院の姫小松は樹高15メートル余りで樹齢数百年になるものでしたが、本堂火災のときに池のみぎわの櫻とともに被災し、とくに「姫小松」は倒木の危険があるため伐採のやむなきに至り、現在はご神木としてお祀りしているということです。いずれにしても、歴史的財産や樹木の尊い命を一瞬にして無にしてしまうなんて、罰当たりな人がいたもんですねぇ寂光院を出て右手には、このようにさらに山の方につながる道があります。苔むした石垣がなんとも大原の風情を感じさせていますね。建礼門院もここで静かに生涯を送られたことでしょう。寂光院の門前の手前に一直線の石畳の道があります。ほとんどだれもこの道を上がっていく人はいませんでしたが、上がってみました。上がりきったところにあったのは、“建礼門院徳子の大原西陵”でした。里を見渡すことのできる寂光院の東の背後の高台に、建礼門院徳子の墓所と伝えられる大原西陵があり五輪塔が祀られています。何故西陵かといいますと、三千院の北にある後鳥羽天皇と順徳天皇の大原陵に対して西陵といいます。上がってきて良かったです。 秋には沿道の紅葉が美しくなるのでしょうね。2013/07/27コメント(2)こんばんは無事、横浜での講演の仕事が終わりました。心配だった声の調子も、とりあえず2時間かすれながらも話せましたので、ホットしています。参加していていただいた皆様に感謝ですね、ありがとうございました。 さて、今月京都の大原に行ってきました。京都の北東部に位置する大原は、かつては世を捨てた隠者たちが住んだ隠れ里。山あいの自然豊かなところです。【せせらぎの音に心が洗われる癒しの山里 大原の里】洛北大原の地は、若狭街道の道筋にあります。この大原の地には三千院、寂光院の他、宝泉院に実光院、勝林院、来迎院と平安末期の乱世の面影を伝える寺院が多くあります。天台宗を指導する比叡山が、仏をたたえる声明(しょうみょう)を行うために、この大原に寺院をいくつかおこしたのが始まりです。そして、このあたりは天台声明の発祥の地と言われるようになりました。【大原の名産のしそ畑と農村の静かなたたずまい】平安末期は、貴族の黄金時代が終りをつげ、貴族政権から武家政権への転換のため、政治の腐敗や戦乱により、都も地方も乱れていました。そういう中、平安末期の有力者は、都の豪邸で贅沢にふけり、郊外の静かな地で仏法にふれ、思索のときをもちました。京内のかれらの生活の跡は幾度かの戦乱で滅びましたが、京都のはずれの寺院の多くは今日まで生き続けています。里の中をのんびり歩きながら、最初に向かうのは“寂光院”です。寂光院といえば建礼門院ですね。建礼門院は平清盛の娘徳子で、わずか3歳にして第81代の天皇として即位し、わずが8歳で壇ノ浦の海に消えた安徳天皇の母でもあります。その建礼門院が壇ノ浦で助けられ、東山の長楽寺からこの寂光院へこられたのは1186年4月でした。寂光院への道は、のどかな里の雰囲気のある家々の中にありました。 2013/07/26コメント(2)こんばんは呪術信仰の最後は“北野天満宮”です。藤原氏に大きな発展をもたらした藤原基経が亡くなったあと、藤原氏と血縁関係がない宇多天皇が親政をとります。宇多天皇は風流人に成り下がっていた藤原氏に替わり、文人の菅原道真を起用して政治の刷新をはかろうとします。それが気に入らなかったのが左大臣の藤原時平で、道真の考えに反対し、それに当時の上級貴族が時平に従うようになります。そこでおこなわれたのが藤原氏の常套手段である他氏排斥です。道真は上級貴族から無実の罪をきせられて九州大宰府に流されます。菅原道真(天神)は延喜3年(903年)に太宰府で無念の死をとげ昇神したといわれていますが、彼の没後、京都で災害が頻発し、これが道真の怨霊の祟りとして恐れられたと伝えられていますが、これは道真に心をよせた中下級貴族や庶民の仕業であったといわれています。天慶5年(942年)に右京七条の巫女多治比文子(たじひあやこ)に、道真が現れ『北野に社殿を造り自分を祀るように』との御託宣がありました。道真の霊を鎮めるため、文子は当初、自宅の庭に瑞垣を造り祀っていましたが、北野の朝日寺の僧最鎮に相談し、天暦元年(947年)に現在の北野天満宮の地に祀るようになったということです。北野天満宮は、最初は道真の霊を鎮めると共に皇城鎮護の神として祀られていたようで、一条天皇が行幸されて以来、代々の天皇の行幸が数多く、皇室の崇敬、国民の信仰も厚かったようです。【北野天満宮拝殿】国宝現存の「拝殿」及び後述の「本殿」等の社殿は、慶長12年(1607年)豊臣秀吉の遺命に基づき豊臣秀頼が造営したものといわれています。拝殿の正面向かって左側には桜、右側には松が植えられていますが、この意味はよくわからないということです。【北野天満宮本殿】国宝下の写真は西背面から見た「本殿」です。「本殿」の左側奥に見えているのは「拝殿」の屋根で、「本殿」と「拝殿」は「石の間」で繋がっています。社殿の屋根は変化に富んだ構成になっており、「八棟造」とよばれているようで、桃山建築の代表とされています。【北野天満宮楼門】「三の鳥居」の北側に堂々とした造りの「楼門」が建っています。天神信仰は、豊臣政権のもとで最盛期を向かえます。そして江戸時代になって幕府は庶民の教育機関として全国に寺子屋を設立させます。その際、精神的な支柱として、かつて学者であった道真の神霊を分霊し全国に奉斎したそうです。以来、神霊は「天神様」と称され学問の神として信仰されるようになり、全国各地、一般庶民にいたるまで広く信仰されるようになったということです。  2013/04/24コメント(2)こんばんは晴明神社のあとは、天神様の力でしずめることができなかったただ一つの怨霊で、最強の怨霊ともいわれている"崇徳上皇"がまつられている"白峯神宮"に行きました。崇徳上皇といえば、平安時代後期に弟である後白河天皇との主導権争いで、平氏や源氏を巻き込んだ保元の乱というクーデターを起こした首謀者ですね。昨年のNHK大河ドラマ「平清盛」で、おそろしい鬼と化した姿で非業な最後をとげる姿が印象に残っていると思います。とにかく、生まれてから死ぬまで、悲運を絵に描いたような人物として描かれていました。保元の乱は小規模な騒乱であったのですが、その衝撃は大きく天皇方は二度と武力で天皇に反抗する者を出さないために、崇徳上皇を讃岐に流罪とし、上皇方の主な武士を死刑にしました。朝廷は平安時代初期よりとだえていた死刑を、実に二百数十年ぶりに復活させたわけです。まぁ、それほど大きな衝撃だったということなんでしょうね。平安時代の蹴鞠(けまり)と和歌の宗家(そうけ)である飛鳥井(あすかい)家の邸跡に、1868(明治元)年に明治天皇によって創建されました。和歌の名手としても知られる崇徳天皇と、『日本書紀』を編集した舎人(とねり)親王の皇子である淳仁天皇が御祭神としてまつられています。そんな白峯神宮も、今は修学旅行の子どもたちが絶えず訪れる神宮になっています。白峯神宮が一躍有名になったのは、2002年に日韓共同開催サッカーワールドカップが行われた年。日本代表の選手が、必勝祈願に白峯神宮を訪れたことがきっかけだそうです。平安時代、飛鳥井家は代々邸宅内に鞠の守護神である「精大明神(せいだいみょうじん)」をまつっており、お参りした藤原成道は蹴鞠がみるみる上達し、後に蹴鞠の名手として有名になったといわれています。それ以来、蹴鞠の上達を願って人々がここを訪れるようになったのだそうです。明治時代になりこの地に神宮が建てられた後も精大明神はまつられ、現在では「スポーツの神様」として、あらゆるスポーツに励む人たちがご利益を授かりに神宮を訪れています。小賀玉の木(おがたまのき)《市指定天然記念物》白峯神宮境内にあるモクレン科のオガタマノキ。境内の東南部にあります。オガタマノキは飛鳥井家の邸跡に古くから存在したもので、社寺の多い京都市内においては最大級で、浅春に仄かな芳香を放ち開花します。崇徳上皇は讃岐に流されたあと、三年の間に五部のお経を書写し、それを安楽寿院か石清水八幡宮に奉納したいと願い出ます。しかし後白河天皇がそれを許さなかったため、これを恨んだ上皇は日本国の大魔縁となって皇室を滅ぼし、王と臣下との区別を逆転させ、日本の身分制を崩すと誓ったといわれています。そして崇徳上皇が亡くなったとき、火葬した煙が京都をさしてたなびいたと伝えられています。それだけ上皇の恨みはすさまじかったということなんでしょうただの恨みごとに終わらず、そのあと日本の国は上皇が誓ったとおりになっていきます2013/04/23コメント(2)こんばんは朝廷の政治が乱れたとき、貴族達の関心はぜいたくな遊びと呪的信仰に向けられました。摂関家の支配下にあった京都では、地方政治の乱れによって生み出された貧民が流れ込んだことで、治安が悪化していました。盗賊や貧民があふれる光景を日常的に見るなかで、貴族達は現実から目を背け、呪術や密教に救いを求めるようになっていきました。そういう中で活躍したのが陰陽師の"安倍晴明"です。【晴明神社】その安倍晴明を祀っているのが"晴明神社"で、謎多き最強の陰陽師として、近年になって訪れる参拝客が急増しています。【安倍晴明像】実は、安倍晴明については、天文暦学の道に精通し、さまざまな奇跡を起こし、6代の天皇(朱雀、村上、冷泉、円融、花山、一条)に天文陰陽関係の官職として長期に渡って仕えた、というようなことしかわかっていません。数年前にマンガや映画などの『陰陽師』で取り上げられて神社の知名度も一気にアップ、さらに最近のパワースポットのブームで再び注目を浴びているとのことです。【本 殿】晴明神社本殿北側に陰陽道の護符である五芒星が刻まれた晴明井があります。安倍晴明の神通力によって湧き出たといわれる"晴明水"で、この霊水を飲むと悪病難疾が平癒するといわれています。このことから、京の庶民がいつのころからか、晴明井のそばで晴明を祀りだしたと考えられています。【厄除桃】桃は陰陽道では魔除け、厄除けの果物とされ、この「厄除桃」を撫でることで自分の厄を桃にうつすことができるといわれています。 晴明神社は、堀川通沿いにある西陣織会館のすぐそばで意外と小さな神社。でも、平日なのに境内にはけっこう人がいてにぎわっています。しかもそのほとんどが女性で中には外国人の姿もあります。古都・京都にはたくさんの「パワースポット」が存在しますが、その中でも最もパワーが強力とも言われるのが『晴明神社』。その評判も合わせていったいどれだけのパワーが宿っているのかを確かめに行ってみてください2013/04/22コメント(2)こんばんは平安時代に欠かせないのが藤原氏、中臣鎌足が大化の改心を推し進めたことで、天智天皇から(大織冠)という(最高)の冠位と,(藤原)という姓をたまわって以来、貴族の頂点に君臨し続けていくことになります。平安時代に藤原氏の中でも北家といわれる藤原氏は、摂政関白という地位を保持し摂関家と呼ばれるようにまでなります。その藤原氏の動向が良くも悪くもこの国の歴史に大きな影響を与えていくことになるんですねぇ。嵯峨天皇の親政のもとで、藤原冬嗣が頭角をあらわしてきます。そこで冬嗣は皇室との婚姻関係を結ぶことで権力を強力なものにしていきます。ただ、この冬嗣の時代までは政治に熱心に取り組み、地方政治にも力を注いでいたのですが、冬嗣の子の良房、孫の基経のあいだに政治が粗雑になっていき、基経の子の時代になるとただの風流人となってしまします。この時代から上級貴族は現実の国政より呪術(じゅじゅつ)に関心を持つようになります。そして、かれらは密教や陰陽道(おんみょうどう)を用いて、自分の出世や政敵の失脚をはかるようになります。平安の中後期は呪術の時代といっていいくらいで、洛中の摂関期の呪術的信仰にまつわる史跡を紹介します。【上御霊神社】上御霊神社は、怨霊となった人を祀ったところで、「御霊」とは怨霊が神となってしずまったものをさします。このあたりはかつては「御霊の森」と呼ばれうっそうと茂った森でした。ちなみにこの地は応仁の乱発端の地でもあります。上御霊神社は、八柱の御霊を祀ることから八所御霊とも呼ばれます。下御霊神社も八柱の御霊が祀られていますが、祭神が少し違っています。両神社の祭神の第一座は、桓武天皇の弟、早良親王(宗道天皇)です。  早良親王は、長岡京建設の最中に起こった藤原種継暗殺事件の黒幕として、無実の罪をきせられ、桓武天皇に抗議するため食を断ち、淡路に流される前に壮絶な死を遂げた方です。その死は朝廷の人々、そして桓武天皇に大きな衝撃を与えることになります。桓武天皇は早良親王の怨念を背負った長岡京を嫌い、新たな都を京に造ることにしたともいわれています。また、桓武天皇は早良親王の死後に宗道天皇の送り名をあたえ、宗道天皇を上御霊神社にあわせ祀ったということです。後に下御霊神社でも祀られています。【下御霊神社】下御霊神社は、下の写真のように今にも崩れてしまいそうなくらいいたみが激しく、それこそこのまま放置していると怨霊がなんとかせいと怒って出てきそうな雰囲気でした怨霊を祀る習俗は、桓武天皇の時代から盛行するようになりますが、京都周辺に今でも残っている怨霊を祀る神社の数の多さは、平安貴族の悪霊に対する恐れの強さを物語っています。これらの史跡は京都市内の近代的都市の中に埋没しており、ありふれた景色の中の古社が平安の世を思い起こさせます。2013/04/21コメント(2)こんばんは今回は久しぶりの京の歴史、平安時代の続きです。桓武天皇のあとを継いだのが平城天皇。どうも病気がちで「これは激務に耐えられないな」と考え、さっさと弟に天皇位を譲りました。こうして即位したのが嵯峨天皇です。平安初期の9世紀の嵯峨天皇朝以降、貴族社会に密教や中国風の漢詩文が急速に広がります。たしかに、この時期に貴族や僧侶の勉学意識は向上します。それが弘仁・貞観文化とよばれる知的で多彩な唐風の文化を宮廷に広めることになります。ところでこの時代。日本仏教界に2大スターが誕生しました。彼らの名前は最澄(さいちょう 767~822年)と空海(くうかい 774~835年)。【 坂本駅前の最澄 】空海は、嵯峨天皇から京都の東寺を与えられ、教王護国寺として鎮護国家の根本道場としました。【東寺(教王護国寺)】空海は東寺の隣に綜芸種智院を建設し、仏教だけではなく儒教と道教も教える、日本初の一般庶民向けの教育機関を設立します。【空海のお住まいであった東寺御影堂】空海は、最澄と同時期に唐へわたりました。そして、青竜寺(しょうりゅうじ)の恵果(けいか)という、密教界でもの凄く偉いお坊さんから「お前さんは超優秀じゃ。よし、ワシの全てを授けよう」として、密教とそれに必要な多くの経典や仏具、曼荼羅(まんだら)を授けられ、また様々な中国文化も吸収し、2年で帰国。そして、真言宗を開き、京都の高雄山寺(神護寺)で活動を開始しました。これを聞いた最澄は、自身も密教を学んだこともあって「私も教えを乞いに行こう」 と、空海と親しく交わるようになり、812年には最澄は空海から灌頂(かんじょう)を授けられました。これは、頭の上に水をそそぎかける、仏教での重要な儀式で、密教でも「秘法を伝える」という重要なものでした。そんなわけで、二人の仲は強固に見えたのですが・・・。4年後、教義を巡って二人は対立することになりました。しかも、最澄の愛弟子が空海の下へ去ったこともあり、とうとう絶交してしまいました。こんな偉いお坊さんでもなかなか難しいものなんですねぇいずれにしても、二人の活動により、次第に仏教が本格的に庶民の間にも浸透してきました。そうすると、日本古来の神々と次第に結びついてくるんですね。これを、神仏習合といい、神社の中に寺が出来たり、その逆の例も顕れてきます。それから、天台宗や真言宗は山中での厳しい修行をメインとするため、日本古来からの山岳崇拝と結びついて、いわゆる山伏に代表されるような、修験道の源となってきます。ここでちょっと余談です。ちなみに、いまでも多くの人が巡る四国八十八カ所、すなわち「お遍路」。これは、空海が修行したといわれる足跡をたどるもので、平安末期から行われていたそうです。巡礼の順番も、鎌倉時代ぐらいからほぼ固まってきたようで、江戸時代から特に盛んになったそうですね。もう一つ余談です。                                         今やかなり減ってしまいましたが、一昔前までは綾子だとか、純子だとか、女性の名前には当たり前のように「~子」と付けることが多かったようです。しかし、小野妹子に代表されるように、元々は男性に使われた「~子」ですが、実は嵯峨天皇が皇女達に「~子」と付けさせたことから、他の貴族も真似して普及して、現在にいたっているということです。2013/04/17コメント(2)こんばんは京都御所は、平安京の東北のすみに相当する位置にありますが、もともとは南北朝時代に、北朝の天皇が居住した里内裏(天皇の仮の住居)の系譜をひくものです。もとは、ある貴族の屋敷を、天皇家が東洞院土御門内裏とよんで使っていたものが、幾度かの火災と再建をへて、今の形になったということです。【京都御所】平安京の中心部は大内裏ですが、平安京の中心の北側に位置します。平安神宮から市バスで丸太町を西方に行った千本丸太町周辺が、大内裏があったところになります。千本丸太町にある児童公園の北側に「大極殿遺址」の石碑が立っています。【大極殿遺址】平安時代の大極殿では、宮廷のきらびやかな儀式がひらかれていましたが、源平争乱の1177年に焼け落ちたまま、再興できないで現在に至っています。【平安初期の軒丸瓦が出土した内裏内郭回廊跡】 【平安時代の瓦が見つかった大極殿西方の豊楽院(ぶらくいん)跡石碑】その他、大内裏の南側にあたる千本通押小路下ルには、大学寮址の石碑があります。大学寮とは貴族の子弟のための官僚養成学校ですね。【大学寮址石碑】大極殿遺址の石碑がある公園の南側の道路沿いに、ひっそりとあるのが"平安宮朝堂院跡"です。【平安宮朝堂院跡石碑】そして最後は"平安京大内裏朱雀門(すざくもん)址"です。平安京の大内裏の南側の正門が朱雀門で、千本通押小路上ルに石碑が建てられています。朱雀門は、幅47m、奥行き14mの巨大な石壇上に建てられていて、朱塗りの柱に白壁が映え、遠目にも華麗なつくりをしていたということです。しかし、大内裏が荒廃した平安時代なかば過ぎには、朱雀門が宮城の正門として用いられることもなくなり、楼上には貧民や盗賊が住み着くようになったそうです。こういうところから、朱雀門の鬼伝説が誕生したのでしょうね。平安京誕生当時を思い起こさせる遺跡が、現在の二条城の西側あたりに数多く残されています。そして、誕生後400年、平安京は大きく変化していくことになります。2013/03/01コメント(2)こんばんは山深い土地で、水と深いかかわりを持つ神をひっそりと祀っていた豪族の前に、突然中国風の都市が出現した。平安遷都の情景はこのようなものであったのでしょう。ということで、平安京の誕生をうかがわせる史跡を巡って来ましたので紹介します。平安京は東西約4.5km、南北約5.2kmの広さで、中央の朱雀大路を境に、東側の左京と西側の右京に分かれています。京都の地図を見て、右側が左京で、左側が右京、ややこしいですねぇ。平安京のおもな通りの地名の多くは現在も受け継がれており、平安京の北限が今の一条通、南限が九条通であることからもわかります。その南限にあるのが、京都のシンボルの一つでもある"東寺"です。もちろん、東寺は世界遺産ですね。東寺は、平安京の南方の正面である羅城門(羅生門)のすぐ東方に位置しています。これは平安遷都にあたり、都の守りとする東寺と西寺を羅城門の左右につくろうとしたことにもとづくものです。【東寺金堂】実は、東寺と西寺の建設には長い年月を要しました。平安京の造営自体が大事業であったために、東寺や西寺の建設まで手がまわらなかったのが実情でした。結局、東寺の金堂が完成したのは823年で、そのときはすでに、嵯峨天皇の代になっていました。【東寺五重塔】この五重塔は、実は平安京造営当初の東寺の建設にはなかったもので、建設しようと考えたのは空海で、完成したのは東寺完成後50年以上も経ってからになります。 【羅城門跡石碑】            【羅城門原型イラスト】   現在では羅城門は[らじょうもん]と読むが当時は[ら(い)せいもん][らしょうもん]と読んだ。そこで、中世以後[羅生門]と書くようになりました。また、『羅城』とは都城の外郭と言う意味です。羅城門は、朱雀大路の南端に建てられた平安京の表玄関の巨大な門で、二層構造の瓦ぶきで、正面約32m、奥行約8mありました。そして、平安京の正面玄関、そして凱旋門としてその役割を果たしていました。この羅城門は816年8月16日夜、大風で倒壊。再建されましたが、980年7月9日暴風雨で再度倒壊してからは再建されず、右京の衰えと共にこの門も荒廃していきその荒廃ぶりから羅城門に関わる様々な説話が生まれ、盗賊のすみかにもなりました。平安京の中でも、右京南部は低湿地であったため早くさびれ、貴族の屋敷が左京北部に集中するようになったのです。このことにより、現在の京都の市街地が、かつての平安京の左京(東半分)を中心とする範囲に広がることになったということです。2013/02/27コメント(2)
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